「ない! 私のチョコレートが、ないっ!」
政木の叫びは、騒々しかった練習室を一気に静まり返らせた。すぐさま、周囲にいた奏者たちが、怒りの矛先を向けられるのを恐れてか、政木の周囲から飛びのくように離れていく。
この頃、政木の苛立ちはピークに達していた。
クラシックフェスまであと一ヶ月をきったというのに、楽団の代表がフェスの運営側と新しくチェロ協奏曲のプログラムを取り付けてきた。
その上、曲はヴィヴァルディの『二つのチェロのための協奏曲』で、チェロが二挺必要になる。間の悪いことに、政木と一緒にチェロを担当してきた奏者のカオリは産休に入り、代わりにつかまえてきたという新しいチェリストとは未だ顔を合わせたこともない。
どうやら、去年のフェスで顔見知りのピアニストを加えて演奏したことが偉い人のお気に召したようだ。こちらの代表も、新しいチェリストもいるからとのんきに引き受けたのだろう。
たまったものじゃない。
同意しないまま今日もその話をされ、苛立ちながら練習室に戻ってきてみれば、苛立ちを優しくほぐしてくれる愛しきチョコレートの大袋一つがごっそりとなくなっている。
一つ深呼吸をして、それでも抜けきれない怒りが沸々とわいてきた。
「ねえ、ちょっと」
政木は、一番近くにいた男を睨みつけた。しんとした練習室に、男の裏返った返事が響く。
「私のチョコレート、誰が食べたのかしら」
「え、えっと……そうだ、サスペンダーを付けた若い男の子が持っていきましたよ」
「……持って行った? 隣の練習室ってことね」
それを聞くなり、政木はばたばたと足音を立てながら廊下へ出て、隣の練習室へと入る。一見、風景は元の練習室となんら変わりはないが、奥の一角には十人くらいの女性奏者たちが練習もせずに輪を作っていた。
チョコレートの気配がする。女と甘い物は仲良しだ。――そう思ってその方向へと足を踏み出すなり、奏でられ始めたチェロの旋律が政木の足を止めた。
音は甘く、幻想的に、殺風景な練習室を走る。一体どこにこんなチェリストが落ちていたのか知らないが、どうやら原石どころかダイヤを拾ってきたらしい。この音と共演できるのなら、コンチェルトだって大歓迎だ。
すぐさま苛立ちは吹き飛び、気持ちはそのチェリストへと猛進する。群がる女達をかき分けて一番前に進み出た途端、顔を確かめるより先に、そのチェリストの首に腕を回して、感動的な出会いを祝福する強烈な抱擁をお見舞いした。
ただし、その時、感動は鼻から出た。
「ああっ、僕のバーバリーのシャツがっ!」
チェロの音が止まると同時に、若い男の嘆きの声があがった。
白いシャツに滴り落ちた政木の鼻血は、どんどんその侵略範囲を広げていく。「あら、いけないわ」などと今更ながらしおらしく言ってみせ、鼻血を垂れ流しながら顔を上げた。怪訝な顔をしたチェリストと目が合う。
「あら」と、政木は思わず口にした。
知った顔である。それも、極々近しい大学の後輩であった。
「村山じゃないの」
「会えるのを楽しみにしていたのに、なんという仕打ちですか! そんなに僕がイケメンで神がかり的にチェロが巧いのが気に入りませんか!」
泣き叫ぶ村山をよそに、政木はさっさと周りの女性たちからティッシュを受け取って両の穴に詰め込む。もうじき二十代も後半にさしかかろうと言うのに、女らしからぬ姿である。
バーバリーが高級ブランドであるくらい、政木にも分かる。少しは悪いと思って、いかにも村山がサスペンダーを付けた若い男の子で、彼を始めとするここら一体が甘ったるい香がチョコレートの行方を物語っているにしても目を瞑ることにした。
「ところで、村山くーん――」
いつまでも女々しくバーバリーがと呟いている村山に、政木はコンチェルトの話を持ちかける。勿論、ダブルチェロの一挺を担う予定を組まされているだけあって、話の概要は既に耳に入っているらしかった。
「ああ、それですか」
いかにも不機嫌そうに、彼は返事をした。
「僕はコンチェルトはそんなに好きじゃないんです」
「そんなこと言わないでさあ、やろうよ。ね? チョコあげるから」
「先輩の舐めまわしたチョコですか? 要りませんよ、そんな物」
「頼まれてもそんな物あげないわよ」
政木がキッパリと言うと、村山は「なんだ、くれないんですか」とわざとらしく残念そうに肩を落とした。実際に舐めまわしたチョコレートを渡しても、平気なツラで食いかねないから恐い。
村山はすぐにけろっとして、
「じゃあ、板チョコを隔週一枚、半年分で手を打ってあげましょう」と、笑った。
すぐに空いている練習室へ移り、観客も伴奏もなしに、たった二人で演奏を始めた。『二つのチェロのための協奏曲』の第一楽章、アレグロ。響きの悪い練習室ながら、政木のチェロは上質でキレのある音を響かせる。
政木には、大学時代よりだいぶ上達した実感があった。久々に聞かせるこの音で、どうだ、これが今の私だと、強く強く主張する。第一楽章の終わりとともに、感嘆の言葉を期待して村山に目を向ける。ところが、そんな政木に対して、村山の表情はどこか冷めてしまっていた。
しばらくして、「やっぱり、やめにしましょう。僕は先輩とはやれそうにない」と、村山は言った。どこか寂しそうな表情で、呆然とする政木を少しも見ない。
政木にとっては、屈辱であった。
「ちょっと! 何よ、何が悪いっていうのよ。私は完璧な演奏をしたじゃない!」
立ち上がって、政木は村山に食い下がる。
政木の演奏は完璧だった。そのはずだ。弾きなれたヴィヴァルディの『二つのチェロのための協奏曲』だ、誰にも、勿論村山にも劣る気はしなかった。
それを村山は、突き放した。
「先輩にはきっと何が悪いか分かりませんよ。だから、したくないんです」
村山は小さく息を吐いて、練習室から出て行く。
わけも分からないまま、悔しくて仕方がなくて、強く床を蹴りつける。痺れと痛みが、足に走った。
それからの二週間、政木の中でコンチェルトの存在が次第に大きくなっていった。
始めは軽い気持ちで村山ならば一緒にやってもいいと思ったが、あんな言われ方をされては、とても引き下がれない。どうしても村山をステージに引きずり出さなければ気がすまなかった。
ライトの光を反射して、きらきらと輝く管弦楽器の数々。燦然とした輝きが、ステージから溢れ出している。
貫禄のある面構えをした髭面の指揮者が舞台の袖から現れると、ざわついていたステージ上はしんとして、談笑していた奏者は各々の席に着く。静寂のホールに、指揮者の革靴の音だけがよく響いた。
指揮台に上り、ゆっくりと指揮棒を構える。
一堂に会した荘厳な管弦楽団は、実際に目の前に在りながら、どこか浮世離れしたものに思えた。ステージの魔力が、この楽団を現実から引き剥がし、魅力的な物語の一幕として組み込んでいるかのようだ。しかし、そう思う一方で政木は、確かな気迫と息遣いを肌で感じ取っている。
あそこにならば、政木の求める物はあるだろうか。
興奮状態の中での、音を奏でるという快楽。自分が音の一部となって、全身で愛や喜び、悲しみというさまざまな感情を表現する。そうして生み出される、蕩け出すようなエクスタシー。思い出すだけで恍惚とする、十年も前の恩師とのコンチェルトの興奮が、今も政木を駆り立てていた。
広川先生――。心の中で、その恩師の名を呼ぶ。眼前のオーケストラの指揮を執る、厳格なその人の名だ。
広川の腕が揺れる。静寂を破り、研ぎ澄まされた強く激しい音が迫る。
政木はうっとりとして、その音に聞き入る。憧れと、思い通りにいかない自分への腹立たしさをもって、政木は輝きの溢れるステージを眺めていた。
「政木さん、お久しぶり」
通し練習を終えると、広川は楽団に次の指示を出し、自分はステージに据え付けられた階段から客席の方へと降りて来た。政木は立ち上がって会釈をする。
「先生、今日も素敵でした」
「ありがとう、政木さん」
たっぷりとした口ひげの隙間から、白い歯を出して、まるで子供のような愛嬌のある笑顔を浮かべた。この親しみやすいおじさんが、先程まで子供が泣いて逃げ出しかねない形相で指揮をしていた男と同じ人間だというのが、どうにも不思議でならない。ステージの上には、そうさせるだけの空気があるんだろう。
広川が客席に腰を下ろし、それに合わせて、政木も隣の席に着く。
「練習なのに、本番とちっとも変わらない気迫を感じました。私、もう圧倒されちゃって」
「本番はもっとすごいよ。政木さんは演奏会、来てくれるのかな?」
「いやだなあ、先生ったら」と、政木は笑う。
この人は、いつもそうだ。
自分の奏でるべき音楽に対してあれほどまでに真摯に臨みながら、それ以外のこと、例えば、演奏会を企画しているお偉方のことや、他の出演楽団、演奏順なんかには結構無頓着なのだ。ところが当日には、その無頓着さが嘘のように、この愛嬌のある顔で、他楽団の代表に挨拶をして回り、体の空く時間には客席から演奏に耳を傾ける。
彼の無頓着さは、どれほど有名な演奏家を前にしてもそうであるし、また、演奏会を他の団体と一体となって楽しもうとする意識の高さは、どれほど無名な演奏家を前にしてもそうだった。
「先生、どうせご覧になっていないんでしょう。そうだと思ってました」
政木は、少しわざとらしく呆れ声を出して、鞄から事前に出演者に配られていた演目のリストを出す。
「うん、どれどれ。おや、政木さんも出るのかい。それも一番手なんだね」
「そうですよ。ああ、それと、午後の部にはオーケストラで参加しているんですよ。先生の出演時間とは離れてますから、ゆっくり聞けそうです」
「なら僕もゆっくり聞かせてもらおうかな」
広川は、にっと笑った。
ステージの上では、奏者たちが各自で練習を始めたらしく、気持ちのいいトランペットの音がホールを突き抜け、それを引き金に、数々の音が折り重なっていく。混沌とした音が、ホール中を駆け巡った。
「それで」と、広川がおもむろに口にした。
「どうして、今日は来たんだい。いつも練習は見に来ないのに」
ぎくりとした。
「今日はこの後、私達もホール練習で」
「それは言い訳だ。君が時間にルーズなことも、僕のといえども、あまり練習を見学するような子じゃないこともよく知っているつもりだよ。何か、気の晴れないことでもあったんだろう」
すっかり見透かされてしまっている。
「先生は、何でもお分かりになるんですね」
「何でもというわけじゃないが、教え子の音楽に対する姿勢くらいは分かっているつもりだよ。差し支えなければ話してごらん」
政木は、視線を足元へとやった。話したいと思ってきたにも拘らず、いざその時となると、真正面から自分の間違いを諫められるのではないかと思って、それがためらわれる。
自分がどこか間違っていて村山がコンチェルトの共演を拒否したのは確かだが、自分のその間違いを真っ向から突きつけられて受け止めきれる覚悟がなかった。
「先生、」と言って口ごもり、子供のように目を伏せる。情けない話だ。何年経っても強情な子供であり続ける自分がいる。人の前で自分の非を認めることは、恐くて、勇気が要ることだとつくづく思う。
しかし、そのために音を奏でることを放棄するのは、強情に、誰よりも巧くあろうと努力した自分に対する裏切りでもあった。言葉はやがて口からこぼれ落ち、胸中を打ち明けた。
広川は話を聞く間中、政木の不安が見て取れたのだろう、始終その温かい笑顔のままで言葉も挟まず頷いているだけだった。政木が一通り話し終えると、「それは困ったね」と、ずっと硬く結んでいた口を開いた。
「彼なりの考えがあってのことなんだろう。彼もよく気分が乗らないときなんかに練習を見に来てくれるが、彼はいつも他の誰より君の演奏が素晴らしいと褒めているんだよ」
間違ってもそんな素振りを今まで見せない男である。村山が政木を褒めていたなど、俄かに信じられないことであった。
「一体どうして、村山くんは君とのコンチェルトを拒否したのかな」
広川はそう言ってから、少しの間黙っていた。政木も、依然としてその問いかけと、二週間前に村山本人に言われた言葉が頭の中を駆け巡っていて、到底何か言葉を発する気にはなれなかった。ステージの騒々しさをよそに、二人の間には重い沈黙が流れていた。
やがて、広川は、政木にチョコレートを求めてきた。
「チョコ、ですか? ありますけど、飲食禁止ですよ、ここ」
「いいよいいよ、大丈夫。こういうものはこっそり食べてしまうのさ」
広川の真意が全く掴めなかった。言われるがまま、政木は鞄からクリップで口を閉じた大袋を出して、その中から、一つ一つ包みのついたブロックチョコレートを二、三広川の大きな手のひらに乗せてやった。
広川が一つの包みをほどいてチョコレートを口に放り込んでしばらく、彼は唐突に「チョコレートはどのように作られるか知っているかい」と言った。
「いいえ、それがどうかしたんですか?」
政木が尋ねると、広川は「僕は若い頃に知り合いのつてで工場見学に行ったことがあってね」と前置きをして語り始めた。
「チョコレートはね、一般に何種類かのカカオマスをブレンドして原料に使うそうだよ。けれど、いくら上等なものばかりを使っても、合わさったときの風味が良くなければ意味がない。調和を無視していてはチョコレートも音楽もうまくいかないよ」
広川の笑顔は政木の非を咎めるではなく、政木の葛藤をそっとほどくようにそこにある。
「なあに、今の君なら大丈夫さ。彼を理解しようと充分苦悩したのだから。僕は本番を楽しみに待つとしよう。僕は練習に戻るけれど、――そうだな、今日のお礼に僕の気に入っているチョコレートを本番前に差し入れに行こう」
そう言って、広川は立ち上がった。
午後になり、集まり始めた楽団員が練習のために準備を始めている。仕度を整えるなり、政木が飛び込んだ先は、勿論、村山が準備をしていた一角だった。
「村山、村山ッ」
呼びかけに応えて振り向いたその顔は、何やら不満の色が見て取れた。
「先輩、どうしてくれるんです。僕のバーバリーのシャツが先輩の鼻血でピンク色になりましたよ。本当にもう、どうしてくれるんです。僕のステージ衣装を」
「それはあんたが洗濯ヘタなのよ。それにバーバリーのシャツなんか買うのが悪いわ。シャツがなければ素肌にサスペンダーでもつければいいじゃない。チェロの持ち運びで鍛えた腕を出しゃあいいのよ。オイルを塗れば下手なシャツより輝いて見えるわ」
「そりゃあ輝くでしょうね、あれだけのライトだ」
村山は、大きなため息を吐いた。
「コンチェルト、どうするんです」
拒否しておいて、不干渉を貫くかと思いきや、急に核心に触れる。
それはそうだろうな、と、政木は思った。ここ二週間、何度もオーケストラの練習の予定が組まれたが、政木が村山を避けていたのは明らかだった。それが、ここに来て声をかけたということに、何かしらを感じ取ったのだろう。
「それよ、村山。悪いんだけど、もう一度合わせて欲しいの」
「一度だけですよ、今度は、大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫かどうかは、あんたが決めることよ」
自信は全くなかったが、チャンスはもう今日しかなかった。本番は一週間後に迫っている。自分でも、合わせてみないことにはどういった演奏が出来るかも分からない。
それでも強く言い放ったのは、自分を奮い立たせるためであった。
政木は練習室を一つ借りる約束を取り付けて、そこへチェロを運び込む。二人で使うには広いがらんとした練習室に、向かい合うように二つの椅子を並べた。
首から背へと走る寒気に、身を震わせる。弓を持つ指先に、必要以上に力が入っていた。いつの間にか、演奏することに対してこれほど気を張り詰めることもなくなっていた気がする。その分だけ、自分が音楽に対して傲慢だったことが痛く感じられた。
椅子に座り、構える。
この曲は、二挺のチェロの掛け合いが重要だ。政木の独りよがりの演奏では、村山が共演を拒否するのも当たり前のことである。あとは、政木がそれをどう奏でるかだ。
視線を交わし、一呼吸。
政木は、緊張に感覚の狂う指先で弓を持ち直し、張り詰めた弦を鳴らした。続いて村山の旋律が重なる。少しの油断もない、キレのある二つの音が交わる。度々村山と視線を交わし、その中で、幾度となくその力強い瞳に圧倒されそうになった。――こいつは、始めから、こんなにも真剣だったのか。
村山の音は、政木が自分の音に捉われてまともに聴いていなかったことが惜しまれるほど、美しく、情熱的で、政木の気を昂ぶらせていた。その音に打ち震えながら、ならばこちらも、と掛け合いに感情がこもる。
緊張から来るのか、久々に味わう誰かと音を創りあげる感覚に酔いしれているのか、弓を通した弦の感触は異様に軽い。どうにも気分が落ち着かないが、それでも、この掛け合いが心地の良いものに感じ、いくらでも続けていたいと思える。
それだというのに、あっという間に第一楽章は終盤へと差し掛かる。ぞわぞわとするあまりに強い歓喜と緊張の震えを体中に残しながら、慌ただしく過ぎ去ったアレグロは、やがて、沈黙した。
政木は、弓を持つ手を膝に置き、ゆっくりと息を吐く。静寂の中には、やたら自分の鼓動だけが大きく聞こえた。
「どうだった」と、政木は尋ねた。体中を快感の余韻が駆け巡っている。
不思議なことに悪い答えを返されるとしても、それに対する不安はなかった。大きく息を吐いて背もたれに寄りかかり、村山の方を見る。
「らしくないですよ、物凄く堅苦しい演奏だった」
政木はただ、妙にさっぱりした気分で、その返答を噛みしめるように数度小さく頷く。コンチェルトは、これで終わった。そう思うと寂しくも悔しくもあったが、それでも、この演奏への感動は少しも薄れなかった。
長いチェロ歴で初めてぽっきりと鼻を折られた気がした二週間前から、今に至るまでの苦悩と演奏の快楽は、この先も抱えていく。頭のてっぺんから爪先までを冒し尽くしたエクスタシーの余韻が、飽きることなく、貪欲に刺激的なセッションを求めているのだ。
セッションの快楽に酔いしれる度、この苦い経験に感謝することだろう。
村山にたったの二回ではあったがコンチェルトに付き合ってくれた礼を述べようとすると、彼は政木が言葉を発するより先に「先輩」と口にした。
「一週間で元の野性的で艶かしい先輩に戻ってくださいよ。僕はそういう先輩にそそられるんですから」
思いがけない言葉にあっけに取られていた政木に、さらに「あと、チョコレート半年分。お忘れなく」という言葉が投げつけられた。
パキン。
ステージの袖に乾いた音が響いて間もなく、村山の「何食べてるんですか」という呆れ声が漏れた。
「何って、広川先生の差し入れ。食べる?」
「ちょっと」
政木が差し出したチョコレートの入った小箱を身体で隠すようにして、村山は小声ながら、珍しく強い調子で言う。
「偉い人に見つかったらどうするんです。ホール内は飲食禁止ですよ。そうでなくとも演奏前にのんきにチョコなんて」
「いいじゃない、いいじゃない。広川先生に飲食禁止ですよって言ったら、こっそり食べればいいってニコニコしてたわ」
「まったくあの人は……」
そう言いながら、村山は箱から一つチョコレートを取り出して、音を立てないようにそっと口に運んだ。それから箱を奪い取るようにして隅に寄せてあったチェロのケースに押し込むと、「これきりですよ」と言って微笑んだ。
暗いホールで客席はざわついているが、ステージでは着々と準備が進んでいた。やがて主催の挨拶は手短に終えられ、いよいよ、出番が来る。
「広川先生がね、上手に出来たらゴディバだってさ」
「ゴッ……ゴディバッ……!」
チョコレートの王様と言っても過言ではない、高級チョコレート、ゴディバである。さすがにその言葉は村山の胸にも深く刺さったらしい。
「燃えるわね」
「燃えすぎて僕がいること忘れないでくださいよ」
「勿論よ。一緒にゴディバを目指す大事な相棒じゃない」
顔を見合わせると、村山がふっと笑った。
同じく舞台袖に控えていたピアニストと握手をしてから、スタッフの指示に従ってステージへと出て行く。赤いドレスとタキシード、そしてチョコレート色の二つのチェロが、ステージの照明を浴びてキラキラと輝いていた。