「姉ちゃん、宙和さん呼んでんぞ」
気だるそうにノートパソコンと向かい合ってキーボードを叩く姉の真尋に声をかける。先程から何度か真尋の夫である義兄の宙和が階下から声を張り上げているが、姉はと言えばこの調子だ。
「あんたたち、今晩の天気知らないの? 雨が降るのよ。もう雲も出始めてるわ」
真尋の言葉を受けて、窓から空を見上げる。一時間も前には眩い月光が嫌でも目に付いたのに、ふと見た先は真っ暗で星の一つも見えはしない。
これじゃあ出かけても意味がないじゃないか。
「それ、宙和さんに言ってあげたら? 準備万端で姉ちゃんが降りてくるの待ってるよ」
「私行かないわよ。それに、ひろくんは星が出てなくったって行くわよ、きっと」
呆れたように大きくため息をついた真尋に一瞥を投げて、雄輝は階段の方へ足を進めた。
弟の目から見て、真尋と宙和が仲のいい夫婦であることに違いはなかった。ただ、どうしてなのか、真尋は宙和が最も熱心に打ち込むことには、これっぽっちも興味を示そうとしない。それはもう、わざとらしいまでに。
宙和は、一言で言うならば天文オタクだった。
淫猥な写真集の一冊も持っていないが、夫婦の寝室の本棚には惑星の写真集がずらりと並び、男性らしい欲求の象徴とも言えるDVD類が無い代わりに、天体の特集番組や教材用のDVDがラックに収まりきらずに積み重なっている。
最近は天文考古学の分野にも熱を上げ始め、古代文明の偉大な天文学の歴史などを熱弁するようになってきた。
確かに、家にいるときは、呆れてしまうほど天体の話しかしない男だ。雄輝ですらそう思うのだから、妻である真尋はもううんざりしているのかもしれない。
それにしたって、こんな天体一筋で女に興味のなさそうな男と結ばれたからには、どこか惹かれるところがあったのだろうに。一旦宙和が星の話を始めると、真尋はまるでにくい敵の噂話を聞くかのように、黙りこくって表情を硬くするのだ。
うっすらと記憶に残る限り、昔は逆だった。
大学に通っていた頃、真尋と当時付き合っていた宙和のデートの行き先には、必ずと言って良いほどプラネタリウムや自然科学博物館などが入っていたはずだ。常識程度の知識はあっても、宙和とその分野で会話するにはあまりにも疎すぎた真尋は、気に入られるために家では目を回しながら天体図鑑と睨み合っていた。
ところが、無理がたたったのか、真尋と天体図鑑の決別。あとは成り行き上、一度距離を置いてそのまま卒業し、自然消滅かと思われたが、こうしてまた、今度は婚姻届にしっかりと判を押して一緒にいる。
不思議なのは、どうしてまたくっついたのかだ。
真尋の天体図鑑との決別、もとい、拒絶というのは、元を正せば宙和が天文オタクだったことによる。だが、宙和の知的好奇心は年々激しくなる。この要因は、結局解決されていない。
では、真尋がまた宙和の趣味に合わせて、天文学に興味を持ち始めたのかと言えば、否。宙和が幾度となく天体観測に誘っても、何かしらの理由をつけて拒否する。宙和の相手は大概雄輝の役目になった。
だったら、どうしてもう一度くっつく気になったのだろう。
真尋に訊いても「子供には分からない」の言葉ではぐらかされてしまう。
初めて訊いたのは、中学生の頃だった。高校二年生になってもまだ分からずに同じことを訊いて、同じ言葉で返されて腹を立てたのはつい最近のことだ。
子供じゃない。そう言ってやりたくて、腹を立てた。それなのに、まだ大人の恋愛事情なんて知りもしない。真尋の言葉にちくりと胸を刺され、図星をつかれたことに腹を立てた。
階段が軋む。
支度を終えたらしい宙和が、階段下にひょっこりと顔を出した。そして、少し寂しそうに「やっぱり、来ないって?」と、肩を落とす。
「うん。今日は曇ってるから行かないってさ」
宙和は、分かっていた、という風だ。
結婚以来、真尋がこうして天体観測を断る回数が二桁に上って久しい。一度くらい一緒に星を眺めてやればいいものを、真尋は未だに頑なに拒み続けている。
宙和は、ふっと笑って踵を返すと、廊下に置かれていたアタッシェケースに手を伸ばした。真尋の言ったとおりだ。曇っていようが、行く気らしい。
「星は出てないよ。行くの?」
「見えないだけさ、奥にあるよ。分厚い雲のその上に、数え切れないほどたくさんの星が。……雄輝くん、行かないの?」
「……宙和さんが行くなら、一応行く」
行く必要性なんか感じちゃいない。
輝く星を見るのは、確かに楽しい。何も知らなくても、宙和がいちいちあの星が何という名前で特性がどうでこういう歴史があるとか、聞かなくても教えてくれる。感動したりもする。
でも、曇っている。星なんかちっとも見えやしない。
つまらないことこの上ない。
宙和がどうして行くのかが少し気になって、結局付いていくことにはするのだけれど、外へ出て、車に道具を積み込んで、空を見上げて、そうして、落胆する。雲は非常に分厚く、ところどころ穴が開いていて星の見える箇所はあるものの、天体観測には適すはずもない。
雄輝が車の後部座席に乗り込むと、宙和は天体観測時にいつも行っている農道へと向かうために車を発進させる。本来、農作業のために軽トラックや農耕車が通るための道路であるため、夜に人は殆ど通らず、したがって、星を捉える折に嫌われる灯りはない。
空の写真を撮るときには、星の動きを捉えるためにシャッターを開けっ放しにする。そうすると星が弧を描いて動く様子が、まるで流星を目に捉えた瞬間のように、尾を引いた姿で映し出されるというわけだ。
しかし、素人目から見ても、夜の闇の中で撮る写真はとても繊細だ。
遠くの工場が夜遅くまで作業をしていればその一帯はひどく明るく、カメラを向ける角度によってはその光が写真に写りこんで、強い光に霞んでしまう。これでは美しい弧がはっきりと写真に映し出されない。また、一見して人工物の光が敵のように思えるが、月が煌々と輝いていても同様のことが言える。
ただ見上げるだけにしても、家があるところには必ずといって良いほど街灯が立ち並ぶ。夜中には灯りが減るといっても、人がいるところには少なからず灯りがある。そういった明るさに紛れるため、細かい星までは見えなくなる。
田園の中央を走る農道は、観測ためにはもってこいの場所だった。
何十分かに一度車が通りはするが、舗装された道路を外れて砂利道を進めば、こいつは夜中に走っている乗用車が好き好んで入り込む道ではなく、通行の邪魔になる心配もない。
街灯のない道で車を走らせ、車のライトだけを頼りにしていつもの場所に辿り着く。
星も月も分厚い雲で隠されてしまっていた。今夜は、今までのどの夜よりも暗く、重々しく感じる。
ガラガラと砂利をタイヤが踏みしめて、しばらくして宙和は車を停めた。
「さあて、……どうしたもんかな。望遠鏡もカメラも、出して組み立てている間に雨が降ってしまいそうだね」
そういって、運転席で残念がる宙和の肩を、シートを、また、ルームミラーでその表情を見つめて、雄輝も肩を落とす。
だから、これって、時間の無駄だったってことだよな。
来る前からそんなことは分かっていたが、宙和が来たからには少しでも何か見る価値のあるものがあるのかと思いきや、ここまで来てもやはり見えるのは分厚い雲。やや強くなり始めた風に流されてはいるが、様子は依然変わりはない。
「帰ろう、宙和さん。きっとすぐ雨が降るよ。今日は残念だったけど、また来たらいいじゃん」
宙和は、シートに頭を預けて、上を向いた。
「雄輝くんさ、今日が何の日か忘れてるでしょ」
「え……今日? えっと、今日何日?」
これだから、と呆れ気味に言って、宙和は言葉を続けた。
「今日さ、七夕なんだよ。七月七日。君だって知ってるでしょ、織姫と彦星の話くらい」
月に一度くらいの頻度で宙和は天体観測に行くと言い出すが、それでも今まで曇っている日にまで来ようとはしなかった。それなのにどうして、今日は、という謎がようやく解けた。
しかし、だ。
有名どころとはいえ、伝説のために曇りの日にわざわざ足を運ぶなんてらしくない。知識としては持っていても、こういったイベントには積極的ではないのが例年だ。
ましてや、例年通りならば、ここで七夕を無視して、天の川の見ごろは一ヶ月も先なのだからと悠長に構え、ペルセウス座流星群の到来と合わせて好天候を祈っていたのに。
「またなんで今年はそんなに熱心に……」
「いつもだったら曇っていたら来ないのにって思った?」
「うん」
そうだよね、と宙和は小さな声で呟いた。
「本当はね、約束だったんだよ」
「約束?」
「そう、約束。真尋ちゃんとした、大事な約束」
ルームミラーに映りこんだ宙和の表情は、真尋に行くことを断られたと知った時よりずっと悔しさと悲しみが浮かんでいた。
相当大事な約束だったのだろう。未だに頑なに天体観測に行くことを断るような真尋が、観測に行くという宙和と取り決めた約束なのだから。
「真尋ちゃんね、随分前から七夕の夜なら一緒に来てもいいって言ってたんだ」
「あの姉ちゃんが?」
信じがたいことではあるが、過去はああ見えて星が好きだったのだろうと思えば、ありえないとは言い切れない。それでも、今朝も私の前で星の話をするなと怒った女が、随分前からそんな約束をしていたとは思えなかった。
きょとんとしていると、「信じられないって顔してる」と、こちらを振り向いた宙和に指摘された。
宙和は前方を見やった。
遠くに、いくつかの小さな灯りが見える。
「結局雲が出て、真尋ちゃんは来てくれなかったけど、だからこそ僕はここに来たかった。ここで、雲間から天の川の写真を撮って、『ほら、見えたよ』って写真を見せてあげたかったのに」
フロントガラスに、雨粒が当たり始める。
「やっぱり、無駄足だったみたいだ」
宙和がうな垂れて間もなく、小粒の雨が大粒へと変わり、フロントガラスに叩きつけられ始める。どこかで雷も鳴っているらしい。
かき消されそうな声で、「帰ろうか」と宙和は言ったが、それを雄輝が制止した。
「いや、帰る前に一つ」
「どうしたの、雄輝くん」
「一つだけ、聞きたいことがあるんだ」
「なんだい? 言ってごらん」
――子供には分からないわよ。
ああ、そうだとも。分からないよ、まだ。
頭の中で繰り返される真尋の言葉に返事して、それから、宙和に真尋に向けた疑問と同じそれを投げかける。
「どうして、もう一度姉ちゃんとくっつく気になったの」
車内に雄輝の言葉が響いた途端に宙和は動揺を露にしたが、それも一時。次第にいつもと変わらない優しげな表情を浮かべて、「その話、ね」と口にした。
「結婚したときには知り合いによく聞かれたけど、最近はめっきりだったよ。その質問」
「で、どうしてなのさ」
普段から笑顔の多い人ではあるが、さすがにこういった質問には内心苛立ちを感じているのかもしれない。宙和は前を向く。バックミラーには落ち着いた様相で目を瞑る姿が映った。
「好きになるのは簡単だった。でも、好きな人の好きなものや嫌いなものを認め合うことが難しかったんだよ。僕らには」
雨脚が一段と強まる。
「知っての通り僕は宇宙が大好きだ。距離や大きさ、名称、引力、位置……現代の科学における宇宙が好きだ。対して、真尋ちゃん。普段は僕が面倒な話を始めるのを嫌がってそういう態度は見せないけど、真尋ちゃんだって星が好きさ。でも、真尋ちゃんが好きなのは神話的な正座の見方であり、古代人の信仰や暦、考え方。要するに、天文考古学」
天文考古学と言えば、最近宙和が熱を上げ始めた分野である。
この分野に食指を伸ばしたことには、おそらく真尋の趣味の影響があったのだろう。過去の反動で天体に関する話を避けるようになった真尋だが、その気を惹きたくて近頃うるさいくらいに古代文明における天文学のあり方などを熱弁していたのかもしれない。
七夕なら、と真尋が言ったのも、その成果だろう。
「お互いなかなか周知の天文オタクだったから、知り合い同士の紹介で知り合って、付き合うことにはなったけど、天文学の分野って幅がひろいからね。同じ天文オタクでも、僕らにとってはお互いの好きな分野がこの上なくややこしいものに思えた」
「俺は星が好きだけど、どっちの趣味もややこしく感じるよ」
「そうだろうね」
そう言って宙和は苦笑を見せた。
「それでも真尋ちゃんは、僕の好きな物を理解してくれようとしたんだ。僕の方はちっとも天文考古学なんか理解できなかったのに。でも、真尋ちゃんだって理解するために心も体も苦しんでた。僕はそれが後ろめたくって、距離を置くようになったんだ」
「ヨリを戻したのは?」
「簡単な話だよ。今度は僕が苦しんださ。ただ、それまで待っていてもらえるかどうかは分からなかったけど。……でも、僕が真尋ちゃんの頭を痛める僕の趣味を投げ捨てて、真尋ちゃんの好きな物を受け入れて、そうして会いに行ってみると、今度は『らしくないよ』だってさ」
笑みがこぼれる。
「で、今に至る、と。僕は僕の好きなように、真尋ちゃんは真尋ちゃんの好きなように宇宙を愛してる。僕らは、この空を、自分の好きなように好きなだけ愛でるお互いが好きで堪らないんだよ。そういう意味で言えば、とっくに好きなものを理解し合えていたんだろうけど、結局、お互い一度『らしくない』ことをして、落ち着く場所に落ち着いたわけさ」
長い語りを終えて、ふう、と宙和が息を吐く。
いつの間にか雨の音はしなくなっていた。フロントガラスにも新しい雨粒が落ちている様子はない。あれだけ分厚い雲を広げておきながら、ものの五分も降っていない。
「みんな、ゴールはそれぞれが思い描いている。結婚とか、家庭とか、幸せな老後とか。でもね、真っ直ぐ行こうとしても行けない時があるものだから、たまには迂回をする。そうして遠回りした分、もっと好きになれたと思うんだよ。お互いに」
聞いても、やっぱりまだ分からなかった。
いや、頭の中では、そのときにどういうことがあって、どのようにしてヨリを戻したか、という話が明確かつ鮮明な色を帯びて組み立てられている。だけど、そんなものはただの骨組みだ。
真尋が『子供には分からない』と言ったのは、経過なんかじゃない。そんなもの、当の二人にしか分からない。
真尋が分からないと断言したものは、心情だ。
恋をして、苦しんで、葛藤して、……そんな心を、色恋も知らぬ雄輝には、子供には、分かりかねるものであると、真尋は言ったのだろう。
でも、きっと分かる時は来るんだろう。
恋をして、互いを理解するために葛藤して、苦しんだりする。雄輝を子供だといった真尋がそうであるように、そうやって、子供は大人になるのだろう。
それがどうしてもムズ痒く思えた。
「……さあ、今度こそ帰ろう」
そう言って、車を発進させようとする宙和を、またしても雄輝が止める。
窓を開けて、空を見上げると大きな雲が風に流れて行った後だった。雲間に星も出ている。
「写真を撮らなきゃ。今だけ、いい感じに晴れてる」
雄輝がそう言うと、急な天候の変化に驚いた様子で黙っていたが、しばらくして嬉しそうに宙和は「ああ」と返事をした。
さて、我が家で待つ隠れ天文オタクの織姫様は、素直に喜んで見せてくれるだろうか。少なくとも、彦星はとても活き活きとした表情で運転席を飛び出して、天の川を見上げていた。
ベガとアルタイルの輝く、この大人たちの愛する空を。