金欠は、辛い。
ムカつくぐらいに真っ青な空を仰いで、コッペパンをちぎって口に入れた。悲しいかな、ジャムすらない。
校庭の芝生は刈りたてらしく、草の匂いが一帯に充満していた。その鼻につく匂いが、幸太郎の不機嫌に拍車を掛ける。
「おーい、幸ちゃん。元気ー?」
と、そこへ羨ましい奴がやってきた。
「久しぶりだなー、央太」
「全然久しぶりじゃないだろうが」
「さあね、忘れたよ」
勿論忘れてなんかいないが、幸太郎にしてみれば、ジャムもマーガリンも持たずに寂しくコッペパンを頬張っているところへ、わざわざ姉の手作り弁当を持ってやってくる央太が、憎たらしく、羨ましいのだ。
意地悪もしたくなる。
「んで、」
幸太郎はもう一握りちぎりとって口に入れながら、喋る。男同士だからということもあるが、はしたないなどと注意する奴もいやしない。
「お前、何しに来たんだよ。央太」
人の目を気にしない央太はやっぱり口に物を詰めたまま、「だってね、女子に聞いたら幸ちゃんがここで寂しく一人でご飯だって言ってたからね、励ましに来た」と、箸を持ったまま、手首のスナップを交えて話してくれた。
央太は多分O型だ。
こんな他愛のない、なんでもないような話でさえ、癖で手が動いてしまう。分からなくもない。幸太郎もO型なのだから。
類は友を呼ぶ、まさしく。
「いちいち俺にくっついてくるお前もお前だが、何故クラスの女子はいつも俺が女生徒ウォッチングをする場所が分かるんだろうなあ……。場所は気分で決めてるし、どのスポットも教室の窓からは見えないってのに」
「幸ちゃんのコト好きなんじゃない?」
「まさか」
ふふっ、と、央太は笑って「まあ、いっつも寂しくコッペパンかじってる万年金欠男に惚れるのもおかしいか」と、痛いところをついた。
「悪かったな、寂しくコッペパンかじっててよ」
「いえいえ、とんでもない! 質素なことはいいことだよ」
「……馬鹿にしてるだろ、お前」
そうだと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた央太。全く、憎たらしい男だ。
「ったく、お前って奴はよー……」
一つため息をつく。
央太が憎たらしいのは今に始まったことではないし、憎たらしさすら個性に変えているのだからこれまた憎たらしい。憎たらしいと思いながらも、心の底では憎みきれないところもまた、憎たらしい。
「央太ぁ」
「何ー?」
「ケチャップくれよ」
「今日ないよ。今日はねー、マヨネーズ!」
央太は、おかずにケチャップやらマヨネーズやらをかけて食べたがるため、央太の弁当を作っている姉は毎日しっかり小さな詰め替え容器に入ったケチャップやらマヨネーズやらを用意してくれるのだが……。
コッペパンだけでは寂しいとき、ケチャップやソースは貰ってかけて食べたが、さすがにマヨネーズは躊躇する。
悩んでいると、いつものようにアホみたいに笑って央太が言った。
「マーガリンとちょっと作り方が違うだけでしょ? 付けてみなよ、おいしいかも。はい、幸ちゃん」
ちょっとどころじゃなく、作り方ちげーよ。
口をついて出てこようとした言葉を押しとどめたのは、言葉よりも強く押し迫る央太とマヨネーズがコッペパンのすぐそこに迫っていたからだ。
「いや、いらん」
マヨネーズの魔の手からコッペパンを遠ざけ、幸太郎は口調を強めに拒否するものの、央太には食い下がる気配というものがまるでない。
今度は、「そんなこと言わずに、ね」と言いながら、食いかけのコッペパンをさっと奪い取った。敵は、強かった。
絶対に悪気があるだろう目の前の男は、マヨネーズのキャップをニヤけながら外す。そしてコッペパンの上にマヨネーズを捻り出そうというそのとき、央太の手からさらに奪い取る手があった。
唖然として、開いた口がふさがらなかった。
「マヨネーズより、ジャムの方がいいわよねえ」
微笑んだ彼女は央太の後ろから、央太越しに幸太郎にコッペパンを渡して、幸太郎の方に歩み寄った。ポケットからジャムを取り出して、袋を開ける。
「はい、ジャム」
言われて幸太郎は、おどおどしながらもコッペパンを差し出す。彼女は袋からジャムを出しきると、自分の手についたジャムを綺麗に舐め取る。
ああ、エロス。
細くしなやかな指である。その指を、鮮血のような真っ赤な舌が舐め回すのである。指をドロリと這っていたジャムの小さな塊が、遊ばれるように舌に絡め取られ、その口の奥へと吸い込まれていくのである。
その指から、舌から、唇から、幸太郎は目を逸らせずにいる。求愛することすら憚られるようなその美しさを、瞬き一つせずに幸太郎は目に焼き付けておきたかった。
女生徒ウォッチングは入学当初からずっとしているが、なかなか幸太郎の美女センサーが起動したことはない。そのセンサーが、だ。今まで辛口評価で起動しようとしなかった怠け者のセンサーが、だ。起動することを、警報を鳴らすことを惜しまず、今まで感じたことのないような反応を見せている。
本当に高校生か、と問いたくなるような大人びた美女。うっとりと、幸太郎は彼女を眺めた。
「名前なんだっけ、彼」
彼女は央太に尋ねる。
普段ならいい女が央太と会話していると、いつも以上に憎たらしいと思うところだが、それすら感じないほどに、幸太郎は彼女に釘付けになっていた。
「幸太郎ですよ」
「ああ、そうだったわね。……ねえ、幸太郎、ヌードモデルしない?」
驚きすぎてただでさえ開いた口が閉まらなかったところを、顎が外れそうなぐらい、さらに開いてしまった。
「はあ?」
途端に口から出てしまう。
「いやあね、冗談よ」
彼女は笑って、「またね」と手を振った。
「あ、ジャムがたれてくる前に食べないと駄目よ」
そう言うと、彼女は本当に去って行ってしまった。
どうにか開いた口を閉めて、ジャムを見る。色的に、ブルーベリーと言ったところだろう。
「椿さん、冗談が大人だよなー。ヌードモデルしないかなんて、女子高生が恥ずかしげもなく言う言葉じゃないよね。しかも後輩男子に」
「彼女、椿さんっていうのか」
「少し珍しい名前だけど、苗字が椿で下が弥生。美術部の先輩で、すごく絵が巧いんだよ。僕も尊敬してる」
幸太郎は、だんだん小さくなる彼女の後姿を見つめていた。
「そうか……椿さんっていうのか」
央太がしてくれた説明もよそに、幸太郎の思考はそこで止まっている。
美女センサーが、今まで出会った女性の中で一番強い反応を見せていた。さすがに目の前に、なかなかいやらしい――いや、麗しい女性が現れれば心も惹かれるというものだ。
「椿さん……」
どろり――。
幸太郎が彼女を思い浮かべてうっとりしている間に、コッペパンの表面からジャムが伝い落ちて、べっとりとした感覚が指を這った。