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やわらかく広がる、彼の淹れたコーヒーの香り。
淹れてもいないのに、彼の服から、ティルの服から、カーテンから、カーペットから……そこらじゅうからその生活の匂いが滲み出る。とても濃くて、でも、何より落ち着くその香り。愛しい、彼の香り。
ああ、どうして、こうも鼻腔をくすぐるのかしら。
目を伏せて、自分の右手の中にある鉄の塊の感触を確かめる。ティルは、握る手に力を込めた。
部屋中に染み付いた濃厚なコーヒーの香り。やがて、その匂いは、よりきつく、鼻に付く鉄の香りにかき消されていく。
「……私は、恋愛ごっこでもよかったのよ」
ティルは、横たわる彼に向かって言った。まるで、コーヒーをお願いと言うときのように軽い調子で、弾んだ声で。
だけど彼は答えない。
ティルは彼に目を向けた。
呼吸をしてはいるけれど、息遣いは酷く乱れ、吸っては息を詰まらせて、吐いては酸素を求めて口をぱくつかせる。その目を剥いて、痛みにもがいて身体をくねらせた。
彼にもう一度、右手の鉄の塊を向ける。
今度こそ、さようならよ。すぐに楽にしてあげるから。
塊の先を彼の胸に向けて、ティルは大きく深呼吸をする。鉄の匂いが、濃厚なコーヒーの香りに侵された鼻を突き抜ける。途端、むせ返りそうになったのを唾を飲み込んで耐え、あたかも平然とした女のふりをしてみる。
これが始めて知った男の、匂いの全てだ。
自然と香る濃厚なコーヒーの香りも、肌を、肉を、突き破ってこうして流れ出た鉄の匂いも、死に際の足掻く獣のような匂いも、全てこの男の匂いだ。
「あなたがいけないのよ。あなたが、結婚しようなんて言い出すから……」
この男の匂いを私は忘れない。
ティルはそう心で呟き、らしくもなく乱れ始めた自分の呼吸を沈めようとして、もう一度鉄の匂いのする空気を吸い込んだ。
「どうしてっ…………どうしてっ、銃を下ろしたのよ!」
ティルは彼に尋ねるが、嗚咽が混じって、はっきりと喋ることができない。
嗚咽の漏れる自分の口を左手で塞ぎ、濡れたまなじりを鉄の塊を握り締めた右手の甲で拭う。
ティルの目には、彼の姿がしかと映っていた。
左手には鉄の塊を握り締め、倒れている。彼の胸に、そして床に、血が広がっていく。彼の胸は弱弱しく、時に激しく上下していた。
ややあって彼は、掠れた声で答えた。
「……君に、殺されるために……」
彼は、震える左手で鉄の塊を持ち上げてみるのだが、握り締める力もなく、するりとすり抜けたその鉄の塊は、床に落ちてがしゃんと音を立てた。
「……撃たれた男の言い訳と思うなら、……弾の数でも……数えてごらん……」
ティルは、彼の手からすり抜けたその鉄の塊を拾い上げ、それに目を落とす。だが、彼の言うとおりに弾の数を数えるでもなく、しばらくして、それを投げ捨てた。
馬鹿らしく思えたのだ。
「……なんて馬鹿な男かしら」
彼は虚ろな目をして、放って置けば出血多量で死に至るその身体で、それでもなお、人生で最高の瞬間だとでもいうように微笑を浮かべている。
そして、それを見るティルも、きっと彼が感じているであろう幸せを感じていた。ティルは右手の自分の銃を放り出して、彼の傍らにしゃがみこみ、血の気の失せた彼の頬を撫でながら、
「でも、私も相当、馬鹿な女だわ」
そう呟いた。
朝の香り。
差し込む朝日もお構いなしに、空色の毛布に包まって眠りこけていたティルを、グレイユが起こしに来たのだ。彼のクリーム色のエプロンからは、今日も変わらず濃厚なコーヒーの香りが漂う。
「ティル、もう朝だよ」
グレイユはそう言って、ベッドに腰かけ、毛布を被ったままのティルの頭を撫でた。
「ううん……もう少しだけ……」
「駄目だよ」
まだベッドの温もりが恋しくて、もう少しと口にしたティルだったが、グレイユは優しく、しかしはっきりとそう言うのだ。
グレイユの体重分沈んでいたベッドからふっ、と重みが消えた。立ち上がったのだ。ティルは毛布から頭を出して彼の姿を確認すると、今まさに部屋を出ていかんとしていて、振り返ったその目が、ティルの視線と重なった。
「そんな寂しそうな目をして、どうしたんだい?」
ほっこりとした笑顔を浮かべて、そう言う。
ティルが「えっと」と言葉を濁すと、彼はベッドの脇に戻ってティルの頭をひと撫で。
「大丈夫、どこへも行かないよ。今、コーヒーを持ってきてあげるからね」
寂しいなんて、思っていないわ。いっそ、どこへでも行ってしまえばいいのに。そうしたら、何も辛い事なんてないもの。
彼の笑顔を見ているうちにこみ上げてきた気持ちを精一杯押し殺して、なんでもないふりをする。
彼が出て行くのを見届けてから、ティルは思いっきり大きく息を吸い込んだ。コーヒーの香りが、鼻を突き抜ける。
ティルがグレイユと共に過ごした月日は、もう五年になる。
組織のために、と、知らない男と寝て、知らない男と暮らし始めた時に、女の自分も平穏も人間らしさも置いてきた。いや、置いておく場所などなかった。だから、きつくなった服と一緒にゴミ捨て場に捨ててきた。
そうして、余り物のこの身体に、新しい名と作り物の過去と経歴を添えたのが今のティルである。
敵組織の諜報員から逆に情報をとろうという策略のためにその身を犠牲にしたとて悲しくもなければ、正体が知れたとしても悔しくはない。どうせ、ゴミくず同然の、ありったけの嘘で繕われた女なのだから。
それでも、五年という月日は人を変えるに十分なほど長かった。
ティルは、ベッドから這うようにして出て、ドレッサーの前に座る。鏡に目をやると、確かに、どこか不安げで、見方によっては寂しそうにも見える表情をしている。自然と引きつってしまっている顔の肉を揉み解して、鏡に向かっていつも通りの顔を作ってみせた。
たぶん、大丈夫。そう言い聞かせて、引き出しを開け、その奥に鎮座する布に包まれた塊を取り出した。その鉄の塊は、ワルサーP99、――愛銃である。
グレイユはおそらく、もう知っているだろう。ティルが敵組織の諜報員で、グレイユの正体を知りながら近づいたことを。
五年の間その腕に抱かれてきたのだ。グレイユ自身は気づいたからといって行動を起こそうとはしなかったが、ある日剥き出しになった警戒心がティルに気づかれた事を教えていた。
しかし、近頃になって、彼はとんでもないことを言い出した。
「結婚しよう」
彼は、そう言ったのだ。
五年も恋人ごっこをしてきた。不思議と湧く彼を思う気持ちは、曲がりなりにも愛であるのかもしれない。
だが、これ以上の関係は築けそうもない。これ以上の関係を築けば、いずれティルは恋人ごっこじゃ済まない気持ちになる。グレイユという男にどっぷりと浸かり、心地のいい愛というものを掲げて、組織のためにと生まれ変わった薄汚れた嘘だらけの自分の皮も脱ぎ捨てるだろう。
そうなったときに、ティルは自分の愛した組織を売りかねない。
あくまでティルもグレイユも諜報員で、敵同士で、利用し合って生きていくしかない薄汚れたごみくず二つ。ならばそれなりに、利用するだけ利用して、見切りをつけなければならない。
今が、そのときだ。
ティルは銃から布を剥がし、ドレッサーの前から立ち上がる。
あなたがいけないのよ。あなたが、結婚しようなんて言い出すから。
頭の中で幾度となく繰り返したその言葉が、また、ふっと頭に浮かぶ。ワルサーP99のグリップの感触を手のひらで確かめていると、だんだんとそれが馴染んでくるのが分かった。
これが、人を殺す道具の重みだ。愛した男を殺す、罪の重みだ。
その右手の物騒な鉄の塊を握り締め、ティルは寝室を出た。真っ直ぐ、グレイユのいるキッチンへと向かう。
濃厚なコーヒーの香りが、はっきりと感じられる。
キッチンの入口からグレイユの後姿を確認し、グレイユ、と、名を呼ぶ。
「ああ、起きて来たの? 今淹れるところだったんだ」
そう言って彼が振り返ったその瞬間、ティルはすばやく右手を上げて銃口を向け、そして、……平然とする彼を前に、動揺を隠せなくなった。
「……ソーコム」
振り向いた彼のいつもと変わらぬ笑顔とは打って変わって、その左手にはMk23ソーコム、銃口は真っ直ぐティルへと向いている。
「そう驚くことじゃないだろう」
彼は言った。
「君だってその気で来た。僕の結婚しようっていう言葉を受けて……ね。僕もそのつもりで言ったんだから」
「でもその銃、ずっと持ってたわけじゃないでしょう? 持ってたら、いくら私だって気づくわ。随分と用意周到なのね」
「そりゃあ……君、さっき様子がおかしかったからね。五年も恋人やってたら、君が何をしようとしているか嫌でも分かる。……ああ、どうしてかな、僕は今、この五年で一番幸せな時間を過ごしているように思えるんだ」
彼は笑った。目を細め、その言葉通り、幸せを噛みしめるように。
「そりゃあ、そうでしょうね。こんな面倒な関係ともおさらばだものね。お互い、もう何も隠す必要はないわ。撃ち合って、どちらかが死んで、何事もなかったかのように組織に帰って同じことをするの。そのための道具なんだもの」
もう、騙さなくていい。それだけで、ふっと肩の荷が下りたような気分になった。たとえ今ここで死んでも、きっと後悔はない。
引き金に掛けた人差し指は、極度の緊張からか麻痺しているようにも感じられる。腕の関節から先はまるで別世界にあるように、普段感じているよりも遥かに軽かった。
口は、言うつもりのなかった、しまい込んだ言葉を溢れさせる。
「そして、こんな些細な仕事一つ、すぐに忘れてしまうの。きつくなった服を捨てるように、重荷になったこれまでの自分も、色恋も、全部ゴミ箱に捨てて、新しい名前で男と寝るのよ。お笑い種よね、こんな人生。自分で幸せなんか選べないのよ、私たち」
本当は幸せになりたい、本気で思った。だから、これから命を奪い合う男にそんな言葉をぶつけたのだ。
おそらく、どんな人生を歩むにしても、この五年ほど幸せだった日々はもう二度と訪れないに違いない。きっと、お互いに諜報員などではなかったら、こんな日陰者ではなかったら、素直に愛し合えたことだろう。
幸せなんか選べない。
提示された選択肢は、愛した男に殺されるか、愛した男を殺すかの二つに一つであった。
グレイユの笑顔が少し曇る。
「それでも僕は幸せだ。君と別れられるからなんかじゃなくて、今までもこれからも関係ない、たった今、この瞬間のちょっとした幸せだよ。……君には分からないかもしれないけどね」
「ええ、分からないわ」
半ば意固地になってそう吐き捨てる。
それから深呼吸をして、香ばしい濃厚なコーヒーの香りを呑み込んだ。
そろそろ、決着をつけるときのようだ。空気が、ぴんと張り詰める。
「頃合いだ」
グレイユはそう口にした。
五年の間に見慣れた愛しい人懐っこい笑顔は彼の顔にはなく、キッチンとクリーム色のエプロンが不釣合いな、銃が似合う人でなしの顔をしている。
「最期に、言いたいことがあるわ」
「僕もだ」
この距離で撃ち合えば、間違っても外すことはない。どちらの銃も確実に急所を撃ち抜き、死に至る。
これが最期に交わす言葉になるに違いない。
どちらが先に言うともなく、二人はその言葉を口にした。
だが、その言葉は、低く轟く銃声にかき消された。
軽く感じていた腕の重みが、銃の反動と一緒になって戻ってくる。
鉛の弾が食い込んだグレイユの身体は、まるで崩れるようだった。足が力を失い、がくんと膝から落ちた。そして、不気味に、低く、か細く笑い声を上げながら、倒れていった。
どうして、という気持ちばかりが先立って、しばらくその情景を呆然と眺めるしかなかった。
グレイユは、おおよそ、ティルと同時にその言葉を口にした。だが、その言葉を撃ち抜いたティルとは打って変わって、グレイユはティルへと向けていた銃口を突然下ろしたのだ。
まるで、撃てと言わんばかりに。
「……私は、恋愛ごっこでもよかったのよ」
ティルはグレイユに言った。
愛してるなんて言葉、今になったら贈るのも貰うのも切ないだけよ。
朝の香りがした。以前と変わらない、濃厚なコーヒーの香りだ。
恋しい空色の毛布から少し頭を出すと、ベッドからすぐ手の届く本棚の上に、グレイユの愛銃、Mk23ソーコムが目に入った。
今朝方、何かがちゃがちゃという耳障りな音で一度目を覚ましたのだが、納得した。これだ。ソーコムの傍には、どうやら血を拭き取ったらしい、まだ微かに濡れたハンカチが置かれている。
ティルはソーコムを手に取り、弾倉を取り外して中身を確認する。空だ。それから、薬室も開き、覗き込む。やはりこちらも空だった。
弾の数でも数えてごらん。あの時、グレイユはそう言った。
出した弾丸はどこにも見当たらないし、おそらくは、弾倉と薬室はあの時のままなのだろう。数える弾など、元から無かったのだ。殺されるためにと言ったその言葉通り、弾の入っていないお飾りのソーコムなど構えて、銃口を下ろした。
本当に馬鹿な男だ。
その時、寝室のドアが開けられ、コーヒーの香りの元が入ってくる。
「こら、そんなものいじらないの」
撃ち抜かれて血まみれになったクリーム色のエプロンに代わって、ピンク色のエプロンが初仕事をしているらしい。早くも、カップに注ぐときに跳ねたのか、コーヒーらしき黒いシミができている。
グレイユは空色の毛布を無理やり剥がし、ソーコムを取り上げて本棚の上へと戻す。
「あなたは本当に馬鹿な男だわ。弾、一発も入っていないじゃない」
「君も相当、馬鹿な女だよ。自分で撃ったくせに、この死に損ないの命を救ったんだからね」
「知ってるわよ、それくらい」
ふん、と、ティルは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「まあ、あれだけの傷で生きてる自分の生命力には呆れたものだよ。君を殺して君のいない世界で生きるくらいなら、いっそのこと死んでしまおうと思ったのにね」
グレイユは、あの日の朝のようにベッドに座って、ティルの頭を撫でた。
グレイユがティルを殺す決心をしていたら、あの日、確実にティルは死んでいただろう。迷いの無い軌道で心の臓へと潜り込んだ鉛の弾によって、人生を懐かしむ余韻も無いままに。
だが、撃ったのはティルだけだった。
極度の緊張に感覚が麻痺してしまった右手のおかげで軌道は逸れ、グレイユに致命傷を負わせたものの、どうにか命を繋ぎ止めることも可能だった。
昨日までずっと寝ていたのに、元気なものだ。
「……あんまり動くと傷口が開くわ」
「大丈夫だよ。それに、君に料理なんて任せたら消し炭ばっかりで傷に悪いからね」
「そんな口が利けるようならもう大丈夫ね」
そう言って、わざと少し強めに腰の辺りを叩くと、短い悲鳴を漏らし、「傷に響く……」と、ぼそぼそと呟いて、服の上から傷の辺りをさする。グレイユが動けない間、ティルが指を傷だらけにしながら必死に作った料理を消し炭呼ばわりするからだ。
それから、ふと視線を交わし、自然とこみ上げてきた気持ちに任せてお互いに笑みをこぼす。
「あのね、」
ティルは、言った。
「あの時、あなた、死にそうだっていうのに笑ってたのよ。それで、やっとあなたの言ってた『この瞬間のちょっとした幸せ』っていうのが分かった気がした」
「聞かせて」
「私たち、あんなになって初めて、お互いを理解できたのよ。命を奪い合うあの状況で、やっと何も隠さず本音で話せた。もう騙す必要も無いんだって思ったときにね、私、あなたと撃ち合って、たとえ死んでも、それは本望だって思えたの」
グレイユは、ティルの頭をまたひと撫でして、目を閉じる。ややあって、口を開いた。
「ティルは言ったね。自分で幸せなんて選べないって……。でも、僕達は生きている。殺すか殺されるか、二つの選択肢しかなかったのにね。僕達は、十分、幸せを選べるんだよ、ティル」
「ええ、そうね……」
こみ上げてきた涙は、そのまま堰を切ったように流れ出した。
グレイユの意識がなかった間に幾度となくした懺悔も、目覚めたときの喜びも、思わずないてしまいそうなことならいくらでもあったのに、もう泣くまいと思って耐えた。だが、ずっと自分が否定してきたことを、ようやく肯定できる時が来たのだ。
幸せなら、選べる。
それは、グレイユが命をもって証明したことだ。
グレイユは、ティルの背をぽんと叩いて立ち上がる。
「コーヒー、持ってこようか」
そう言う彼の顔には、愛しい人懐っこい笑みが浮かんでいた。
深い黒色の、目の覚めるさっぱりとした苦味のコーヒー。グレイユに染み付いた、嗅ぎ慣れた匂いのそれは、ティルにとっては彼の温もりそのものだ。
軽い調子で、弾んだ声で、ティルはグレイユに言った。
「ええ、お願い」