鍵盤


 防音のリビングに入ってきた岡見は、冷蔵庫から持ち出した大吟醸をテーブルに置いた。ついでに、岡見は床にごろごろと転がった空いた酒瓶をきちんと立てて、隅に並べる。
「今日のプログラムの最後はなんて曲だったっけ」
「リストの『ラ・カンパネラ』だ。パガニーニの曲を編曲したものさ。パガニーニは知っているだろ?」
「写真家にそれを聞くのか、君は」
「名前ぐらいは写真家でも知っているだろ」
 岡見は、写真家だった。
 三年前にもなるが、とあるパーティーの、賑やかさから少し離れた隅の方に彼はいた。あまり社交的ではない、どちらかと言えば根暗そうな面構えで、会場の人間たちを観察するように見ていた。
 対して、こちらはといえば、パーティーの参加者ですらなかった。余興のために呼ばれた、名も無い演奏家の一人だった。
 そこからどのように知り合ったのかは忘れたが、ただ、気質が合った。仕事も趣味も、まるで違う、意見も正反対であるときの方が多い。それでも、何かしら気の許せるところがあって一緒にいても苦にならなかったことが、今でも交友が続く要因だったろう。
「パガニーニのヴァイオリンの音は、どんなものだったろう。その演奏を聴いたリストが、ピアノのパガニーニになると言った。そうしなければ気が狂うと。そんな音を響かせることや、そんな音に出会うことは、気分がいいことなんだろうか。なあ」
 指が、鍵盤に触れる。適当に和音を弾くと、音は重く、溶け込んだ。
「さあね、写真家に分かるもんか。それよりこっちで飲もうじゃないか。僕は音楽の話はよくは分からないが、今日の君のコンサートはすばらしかったと思うね。それでいいじゃないか」
 岡見に促されるまま、ピアノを離れてテーブルを挟むソファに掛ける。
 色鮮やかに茹であがった枝豆が、皿の上に山を作っている。岡見の手土産だ。
「そういえば」
 杉村のコップに酒を注ぎながら、思い出したように岡見は言う。
「また恋人に捨てられたんだってね。君のピアノに憧れて練習に励むロマンチストな少年少女たちは、君の女性関係のだらしなさが記事にでもなったら幻滅するだろうな」
「まだ記事にはならないだろ。そこまで名は売れてないつもりだ」
「時間の問題だろうけどね」
 本気で呆れているのか、それとも諫めているつもりなのか、岡見は大げさにため息をついて肩を落とす。その姿に、思わず吹き出してしまった。
「俺の名が売れたら、スクープ写真でも撮るか?」
「まさか! 僕のカメラは君のどうでもいいプライベートを撮るためのものじゃないよ」
「どうでもいいって酷いな、お前」
 言いながら、今度は杉村が岡見のコップに酒を注いでやる。
 パガニーニは、悪魔に魂を売ったとまで言われていた男だった。彼のヴァイオリンに魅了され、どれほどの人が、我を忘れたことだろう。中には、失神した人もいたとさえ聞く。
 その聴衆の中に、フランツ・リストはいた。
 果たしてパガニーニは、リストは、聴衆は、その音を各々どのように感じたことだろうか、と思いを馳せる。
「だけど、君の浮気癖もどうにかならないのか? そのうち酷い目に遭うよ」
 岡見の心配の程度は定かではないが、しきりに枝豆を口に運びながら、もごもごと言った。
 時折、杉村は心底女に惚れたと思うときがある。そういったときには、思った途端に、すがるようなアプローチをかける。周りから見てみっともないと言われるほど恋慕し、好きだとか愛しているとか、そんな言葉を叩き売りにして、どうにかしてその女をものにする。
 しかし、女が振り向けば、もうあとは下り坂でボールを転がすようなものだった。
「難曲とかにぶち当たると、ピアノ以外のことに目が向くんだよ。だけど、それで女を口説き落とした途端に、寂しくなって、とにかく楽譜を開きたくなる。鍵盤に触れたくなる。口説いた女を放ってピアノに熱中し、また行き詰まって別の女を口説く。そうしてるうちに、浮気だなんだって騒がれるだけだよ」
「そら、当然だよ」
 杉村は、コップを手にして、ぐい、と飲み干す。
「こういう仕事していると、やっぱり知り合うのは演奏家が多いけど、未だに、俺はリストが感じたかもしれない衝動を感じられてない。たぶん、そんな人はこれからも出てくることはないだろうけど」
「女で?」
「女でも、男でも、どちらでも」
 杉村の空いたコップに、岡見が並々と酒を注ぐ。
「リストは、歓喜に打ち震えたんだろうか。自分を揺さぶる、悪魔に憑かれた演奏に出会ったことに」
「偉人の考えたことは、凡人には分からないものだよ」
「俺がそれほどの音楽に出会ったら、その時点で気が触れてしまいそうだ。そうして、悪魔がきっと、自分にも取り憑くのさ。頭で考えるより先に腕が動き出し、痙攣しても指に血が滲んでも弾くことをやめられなくなるんだろう。俺はパガニーニに出会わなくてよかったのかも知れないが、俺の世界を変えてくれるのは、結局パガニーニしかいないんだ」
 怪訝そうな顔つきで、「はあ」と言った岡見の掴んだ枝豆が、皮から飛び出す。ぴゅっ、と、あらぬ方向へ飛び、杉村のコップにぽちゃんと落ちた。

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