官能作家


 ワープロのテキストカーソルは、次の文字を待って点滅している。言葉を並べてみても、どれもしっくりこない。書いては消し、また書いては消し、そうしている内に、灰皿の上で煙草がその灰を落とした。
 <  >は、燻っていた煙草を灰皿に押しつけて消すと、ゆっくりとノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
 見栄で買ったマンションは整理し切れていない資料や、未発表の原稿、大量のミスプリントなどで足の踏み場もないほどに埋め尽くされ、<  >のデスクの上だけがきっちりと整頓されている。
 そこに、ガラスケースに飾られた片方だけの赤いピンヒールがあった。
 ガラスケースはコーヒーの湯気に曇り、ピンヒールの真っ赤なエナメルは、修正済みのポルノのようにぼけていた。



 赤いピンヒールをご存じですか。
 洒落っ気のない茶封筒には、宛先と差出人の氏名住所、そして、目にとまるようその一文が添えられていた。
 原稿の山に挟まっていたそれが、ひらひらと足下に落ちてきたのは、その手紙が届いてから半年以上過ぎた時になってからである。
 それがファンレターではないことは、<  >には一目で分かった。
 ぎくりとした。
 差出人には<  >を咎める気持ちが無いらしいことは、丁寧な文面と態度で分かった。それでも、<  >は悪事が知れた子どものように、縮こまってその手紙を読んだ。
 デスクの上のガラスケースに飾られた片方だけのピンヒールは、どのように事が転ぼうと大人しく沙汰を待つ気でいる。
 手紙の内容は、こうである。
 この夏(<  >が手紙を開いた時点では昨年の夏)、私は夜に浜辺におりたことがありました。ピンヒールを岩陰に置き、裸足で波と戯れておりましたが、しばらくして、知人の急病の知らせが入りました。迎えが来ていたので、すぐさま靴を手に戻ろうと思ったのですが、靴はそこに片方しかありませんでした。急を要することでしたので、やむを得ず一方を手に、もう一方を残したまま浜を後にいたしました。そうして朝に浜へ戻ったとき、赤い靴を持ち去るあなたをお見かけしたのです。
 手紙には、捨ててしまったかと思われますが、もしもまだ持っていらっしゃるのなら――と、続く。
 <  >は、すぐさま返事を書こうという考えに至りはしたが、とはいえ、このピンヒールの扱い方には頭を悩ませられた。幾通りかの選択肢を並べ、広げた便せんにペンを投げる。
 そうして小一時間も考えて、ようやくペンを執った。

 東の海に金色のあぶくが立った。
 波は、朝焼けを映す海上のコントラストの上を走り抜け、夜の名残のブルーを呑み込んで浜へと上がる。<  >の足の指に触れる手前でさっと引き上げたかと思いきや、次はくるぶしの高さまで海水に浸かった。
 ほんの十数分くらいで東の空は夜が恋しくなるほどの晴天になった。<  >は波の来ないところまで下がって、ふと、海岸沿いのうねる道路に目をやった。
 ちょうど一年くらい前も、同じようにここへ朝焼けを見に来たのだ。
 その時は、友人の何人かと気晴らしに旅行に来て、缶ビールを片手に互いの近況やたわいない話をして過ごしたが、午前三時を過ぎた頃から一人、また一人と畳に転がっていった。四時前にもなれば、話し相手がいるうちは寝ないだろうと思われていたお喋りもうつらうつらとして口を閉じ、それでも時折目を覚ますと何かしら話したがるので、<  >は「少し海を見てくる」と言って部屋を抜け出したのだ。
 その時は、空に薄雲がかかり、鮮明なコントラストを見ることは出来なかった。元より友人を寝かせてやろうと、部屋を抜け出す口実に海へ行くと言っただけで、朝焼けを期待していたわけではない。しかし、雲に覆われていなければきっと綺麗であったろうにと、ため息が漏れたものだった。
 <  >が赤いピンヒールと出会ったのはその時だ。
 白む空を、その日は浜へおりる階段に腰掛けて眺めていた。もうすっかり明るくなり、そろそろ旅館へ戻ろうかと立ち上がったときに、ふと目をやった階段の下に片方だけのピンヒールが転がっていた。
 おそらく海水浴客の忘れ物だろう――、<  >はその無造作に転がったピンヒールを、ごみとして処分するつもりで拾い上げた。しかし、それを捨てられなかった。
 真っ赤なエナメルにこびりついた砂を落とし、眼前でくるりくるりと回しながら眺めているうちに、それが持つ不気味な魅力は<  >を捉えて放さなくなった。そして、姿の見えない持ち主の女の足下にどのように輝いていただろうかと思いを馳せた。目鼻立ち、髪の色つやや長さ、プロポーション、肌の質感……、<  >は数え切れないほどの赤いピンヒールの女を脳裏に描いては恋に溺れたようにうっとりとした。
 道路に背を向け、誰にも見られないようにしゃがみ込むと、<  >はピンヒールからインソールを剥ぎ取った。背徳感に酔いながら、インソールを鼻に押し当てると、まだ微かに女の残り香がある。指と指の間をぬめらせる汗匂いが、靴の革の匂いと混じり、得も言われぬ匂いを醸し出していた。
 <  >はインソールを鼻に押し当てたまま、大きく息を吸った。
 良い拾いものをしたと思った。
 インソールを戻して、赤いピンヒールを上着でくるむと、<  >は足早に旅館へと戻った。そうして、誰にも見つからないように、ボストンバッグの奥底に押し込んだ。
 その拾いものは、今はマンションのデスクに飾ってある。台座に乗せ、ガラスケースを被せた。
 ピンヒールは、<  >の作家としての生活に大きな影響を及ぼした。
 赤いピンヒールの女は、いくらでもアイディアを授けてくれた。<  >にとって、ピンヒールは実体を持たない女性像だった。そうして生まれた彼女たちを<  >は気高くも汚らわしくも書き、貶めもした。
 しかし、いくらでも好き勝手に赤いピンヒールの女を妄想する一方で、実際の持ち主がどんな女性であるのかという問いが常に頭をかすめていた。
 彼女は、<  >が妄想した数々の赤いピンヒールの女たちの母親と言えるだろう。そんな女に、自然と恋い焦がれた。そうして、きっと美しかろうと妄信した。
 手紙を見たとき、教養のある女だと思った。そして、きっと白く細い指先でペンを走らせたことだろう、と。その時、一目でよいから彼女の姿を拝みたいという欲が、良識すら押しのけた。
 踊るような心持ちを落ち着け、波の音に耳を傾けていると、しばらくして「――あの」と、声がした。
「<  >先生ですよね。ピンヒールの件で手紙を送った者です」
 顔を向けると、そこに女がいた。
 緩いパーマのかかった長い黒髪が腰まであって、その黒によって余計に肌の白さが際立っている。目鼻立ちのくっきりとした顔で、華奢な体を明るい色のワンピースが包んでいる。
 彼女は確かに、美しかった。
 そうだ、美しい。何度も、自分に言い聞かせるために反芻する。
 確かに美しいことには変わりが無いのに、どうしてだろうか。彼女を求めた欲望に反して、この感動はあまりにも冷めている。こんなはずが無い、何に不満がある――自分自身に問うが、答えは容易に出せるものでは無い。
 まるで、ずっと欲しかった玩具が、手に入れた途端にただのガラクタに変わってしまうような気持ちだった。
「先生? どうかしましたか?」
 彼女は、<  >の動揺も知らずに微笑んで言った。
「……いや、大したことじゃ無いんですよ。初めまして、<  >です」
 <  >が右手を差し出すと、彼女は微笑みながら握手に応じた。柔らかい両の手で<  >の骨張った右手を掴んで、「お目にかかれて光栄です」と口にした。
 手紙にも書いていたが、彼女は<  >の小説の読者だという。彼女が<  >の顔を知っていたのも、文芸雑誌の特集に顔が載っていたからだと記していた。
「すみません。手紙にも書きましたが、もうあのピンヒールは捨ててしまったんです」
 <  >が言うと、彼女は少し残念そうな顔をしたが「それは分かった上でここに来ましたから」と答えた。それから彼女は、「こちらこそ、こんな早くにお呼びして申し訳ありません」と口にした。
「お気になさらないで下さい。先に会いたいと言ったのはこちらですし、私は時間の融通が利く身ですから。それに、おかげで今年は綺麗な朝焼けが見られました」
「それは良かったです。私もこの浜で見る空が大好きなんです。先生もきっと気に入って下さると思っていました」
 彼女はそう言って、嬉しそうに笑った。
 ややあって、<  >は「実はあなたに渡したいものがあって」と口にして、岩陰に寄せておいた紙袋を手にした。
「代わりになるとは思いませんが、お詫びに新しい靴を贈らせて下さい」
「えっ、そんな、置いて行ってしまった私が悪いんですから……」
 彼女は遠慮してそう言ったが、二、三度<  >がどうしてもと言うと、靴を受け取った。そうして、とてもにこやかな笑顔を浮かべてくれた。
 今日は友人の結婚式があるという彼女を長く引き留めてしまう訳にもいかず、それからは少しばかり取るに足らない話をしただけで、夜の名残が消えて空が真っ青になった頃に、
「それじゃあ」
「先生、本当にありがとうございました」
 と言葉を交わして分かれた。

 <  >が帰りの電車に乗るために駅に着いた頃、ホームから見上げた空はもう茜色に染まっていた。今日はすっきりと晴れ渡った一日ではあったが、その分日差しは強く、うだるような暑さでもあった。
 改札を抜けた先で、見覚えのあるワンピースを見つけた。
 人の少ない田舎のホームだからか、彼女も<  >に気づいて、すぐに「先生」と言った。
「このあたりに住んでいる方じゃなかったんですか」
「ええ、今日は結婚式のために帰省したんです。普段は実家を離れておりますので。先生も三番線ですか?」
「いいや、私は四番線なんです」
 それだけ言って、軽い挨拶をして分かれようかと思ったが、彼女はこれまで聞いたどれよりも落ち着きのある声で「先生」と、呼び止めた。
「本当のことを言って下さって結構ですよ。誰にも言いませんから。私は黙っていられる方がむず痒くて仕方がないんです」
「何のことですか」
 いったい何のことかと首を傾げる。しかし、内心ではもしやそれはピンヒールのことでは無いか、と思わずにいられないところもあった。びくびくしながら彼女の言葉を待つと、案の定。
「惚けないで下さいよ。ピンヒールですよ。本当は、まだ持っているんじゃないですか?」
 彼女自身、確証を持ってそのように言っているらしかった。
「私、先生が何をしていたか、知っているんです。あのとき……一年前のあのとき、本当は持ち去られる少し前から見ていましたから」
 もはや、ピンヒールを持っていようが持っていまいが、あの背徳的な行為は知られている。何を弁明しようが無駄らしい。
「……ああ、持っているとも。その通りだ」
 <  >は弁明することも無く、大人しく正直にそう言った。
「捨てたと言ったのは、どうしてですか?」
「君に返したくなかった。あのピンヒールは、いくらでも私に持ち主への妄想を抱かせた。そして、その妄想の女たちを汚して、私は仕事をした。私にとっては、返すことが酷だった」
「先生って、酷い方なんですね。姿の見えない私を、そうやって弄んでいただなんて」
「違う!」
 彼女のわざとらしい物言いにカッとして、<  >はつい怒鳴り声を上げた。彼女の口が新たな言葉を生みおとす度に、彼女が被っていた皮を脱ぎ捨てるのがありありと分かる。
「違う……君じゃない。彼女たちはピンヒールを介した妄想だ」
「何が違うんですか。先生の中では区別が付いているのか知りませんが、結局、持ち主である私自身から少しだって離れていないのに」
「自惚れるなよ! 君に会って私はよく分かった。君自身も、そこら中にいくらでもいるただの女だったんだ。幻想を抱かせる余地すら与えてはくれない、ただの現実だ。それも分からず会おうとした私が馬鹿だったんだ」
「幻想? インソールを鼻先に押し当てて、生々しい匂いを嗅いでた人がよく言いますね。たとえそれが幻想だったとしても、先生、それは紛れもない私の幻想ですよ」
 彼女の言葉を聞いた途端に、ハっとして、言い返す言葉を失った。幻想はきっと死ぬのだと思わずにはいられなかった。
 幻想は死ぬ。現実に変わった瞬間に。そうして、その現実は、良くもあり、悪くもあるのだと思い知らされた。<  >は、彼女への諦めと敗北感に満ちた心で、精一杯の賛美を贈る。
「君のその毒々しさに、あの赤いエナメルはよく映えたろうね。――ほら、君の乗る電車がくるよ」
 彼女の乗る快速電車は、<  >の言葉を半分くらいかき消しながら停車すると、ドアを開いて数少ない新たな乗客を待っている。彼女は<  >の方を向いたまま歩き出しながら、
「先生、次回作を楽しみにしています」
 と言った。
「君はなかなか肝が据わった女性だね。ただの女だと言ったことは謝るよ」
 発車音が鳴り出したので聞こえたかどうかは怪しいが、急いで電車に乗り込んだ彼女は、車窓からにこやかに手を振っていた。



 <  >は、部屋のそこら中の棚や引き出しを引っかき回しながら、白い梱包用のテープを探し出してデスクに戻ってきた。
 彼女は、幻想を抱かせる余地のない、紛れもない現実だった。旅行から戻って、ガラスケースのピンヒールを眺めると、そこに浮かぶのは今まで幾通りもの顔かたちを持っていた赤いピンヒールの女ではなく、彼女だけだった。
 彼女があのピンヒールの現実であることは、覆らない。
 <  >は、ガラスケースにぐるぐるとテープを巻き付けた。中が見えないように隙間無く、ぐるぐると。そうして、巻き終えたガラスケースをピンヒールの台座に、外れないようしっかりと固定した。
 それをまた今まで通り、ガラスケースの定位置に戻して、もうすっかり湯気の消えたコーヒーを飲み干した。

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