ff――フォルティシモ。
強弱記号の中で、"きわめて強く"を意味することば。
対して"きわめて弱く"はpp――ピアニシモ。
粗悪品にとっては、どうにも好きになれないものだった。
「だーかーら!」
湯浅の罵声が飛んだ。
独り身のまま二十代後半の、さらに後半に差し掛かっている。最近ピリピリしているのは、また男と別れたからだろう。
伊沙子のピアノの音量が変化することに、今日は敏感に食いついた。
「ぶー」
気分が乗っていたところに急に止められて、伊沙子はふてくされて口を尖らせた。
「先週も言ったでしょ? そこはまだf(フォルテ)じゃないの。最初はppで、少しずつ、少しずつボリュームを上げていって、中盤になったら思いっきりやる。分かった?」
「だって強くしたいじゃん」
「あんたがもうちょっと冷静になったら、緩急や強弱があってこそのこの曲の色気が分かるようになるから。とりあえずはあなたがボルテージ下げなさい」
週一回三十分のレッスンのうち、今週はもう残り五分になった。
湯浅に言われて少し落ち着こうとはするが、それでも伊沙子なりにイメージした弾き方はそのまま、頭の中でピアノを鳴らし続ける。
湯浅が言っていることは間違いじゃない。分かっている。
大人しく言うことを聞けばそれなりに巧くはなるだろう。伊沙子は、ピアノとはもう十年近い付き合いになる。指はピアノを弾くことになれ、湯浅の教えを請うことでこれからまだ成長出来る。
この教室では小学生以下から大学生まで、多くの子供たちを教えている。中にはまるで生徒とも思えないような弾き手も何人かいて、指導者としての湯浅の腕前は高く評価されている。そんな湯浅も、以前は弾き手として活躍したと聞く。
まあ、そんな業界屈指の元ピアニストの現指導者から学ぼうとも、.他と月謝に変わりはなかろうが。
「まったく、なんで楽譜に弱くしろなんていう指示があるんだか」
ボルテージを下げろ。
湯浅に言われた通り、伊沙子はため息とともに感情の突起を鎮める。別に、ピアノを弾くことが嫌なわけじゃない。大好きだ。だから、無感情に弾くよりも、自分の弾き方にだって自分なりの意味がある。
ピアノを好くこの気持ちを、音で表現したいだけなのに。
制御不可。
伊沙子にはその言葉がよく似合う。伊沙子がオーディオなら、音量調節の出来ない"粗悪品"である、ということになる。
「あんたもちょっとくらい冷静なら、巧いんだけどね。……大体"強いだけ"とか"弱いだけ"の音楽なんて聴きづらい。それに、強弱のない平坦なメロディは、一昔前のゲームのBGMと一緒よ」
それから、「私、そういうゲームの世代だったから、あの音は好きだけどね」と呟きながら、ピアノの側を離れた。
「じゃあ、もう一回」
湯浅は自分だけ、一人掛けの高級そうなソファに身体を埋めて、温かそうな膝掛けをかける。これまで十年近くピアノを弾いてきた中で、湯浅は伊沙子にとって二人目の指導者だ。今年で四年目になる。
膝掛けなんてまだ早いだろうと思えるこの時期。それでも、四年目ともなれば、もう見慣れたものになってきた。
そんな湯浅の姿を確認してから、気合いを入れて、とりあえずは最初の方を抑え気味で弾き始める。あまり気分がのってくると、強弱を無視して突っ走りかねない。とりあえずは、冷静に、冷静に、そう言い聞かせながら、苦手なppでの弾き始め。
大抵湯浅が横で仁王立ちしながら聞いているときは、顔が少し見える。大きすぎだと呟くか、もしくは表情の曇りか、何らかで伊沙子の強弱無視をなじる。
今はソファの方を見てまで顔色を窺う余裕はなく、そのまま引き続ける。
が、
「あー! やっちゃった」
間違えて、止まってしまった。
「全く、あんたはそんなところで止まって。どんな凡ミスよ」
「湯浅が音量落とせって言うから、そっちにばっかり気がいったんでしょうが」
「言い訳しない!」
結局、湯浅にしかられる。
「あんたが間違えてばっかりで、貴重な三十分が潰れたじゃない。こんなんで月謝貰ってたら、私がぼったくりみたいだから、来週までにあんたなりに記号に従って強弱付けて練習してきなさい。勿論、私が言うことも踏まえて、だからね」
「はーい」
伊沙子は、渋々返事をした。見れば、レッスンを始めてからもう三十分が経っている。近頃、この三十分がやたらと短く感じられるようになった。
それだけ、怒られたとしても、ピアノを弾くことが楽しいと思えている証拠だ。
練習してこい。そう言われることが前は苦だったのに、今はそうは思わない。もともと相手は恐い女だし、怒られる度に嫌いになった湯浅を、今は尊敬している。
そろそろ真剣に進路を考えねばならない歳になった。高校も大学も、もう決めてある。音楽をしていこう。高校では音楽科に、大学では音大に進もう。湯浅が通った音大だ。湯浅が夢破れて、新たな決心をしたという音大だ。
「ねえ、湯浅」
楽譜を片付けて、帰り支度をしながら伊沙子は湯浅に問いかけた。
「ちゃんと練習したら巧くなる?」
巧くなる? ではなくて、巧くならなくてはならないのだが、時々不安にもなる。もし、この気分で突っ走る癖が直らなかったら、とか。
「大丈夫よ。あんた、私の後輩になるんでしょうが」
「そのつもり」
「私だって昔はあんたのこと言えないような弾き方して、先生に怒られたし、それに……」
湯浅は右手を胸元まで挙げて、軽く振る。
「こっちの先生にも注意された」
指揮――というジェスチャーだ。
これまで伊沙子は、何度か湯浅と将来どうするか話したことがある。それで、湯浅自身のことを聞いたことも何度かある。
子どもの頃はピアノ一筋でやって来たらしいが、中高の六年間でいろいろな楽器に触れ、大学に入ってから導き出したのは指揮者になることだったらしい。二年まで指揮をやっていたが、最後の先生にお前は才能が無いと突き放され、指揮者への夢を断念。
再びピアノに没頭し、いくつかのコンクールなどで賞をもらった後、卒業。それから二年間はそこそこのピアニストとして名を馳せたというが、その頃十歳の伊沙子の関心は、自分が何が好きで何が弾きたいかの方に向いていたのであって、そこそこのピアニストなど知りはしない。
ともかく湯浅は、その二年を経て、若くして教える側に回った。
そんな華有り棘有りという人生を送って三十路マイナス数歳。今に至る。
「大学以降の進路は知ったこっちゃないけど、ピアノ続けるならあんたにも言っておく。私に指揮者諦めさせた男の言葉」
湯浅は言った。
「楽譜は、手紙なんだって」
「手紙?」
「手紙と言うよりは、多くの人へ向けて発したメッセージだけど。手紙って自分が今伝えたいことを書くでしょ? 楽譜もそうなの。文字ではなく、音で。作曲者の意図は、楽譜の端から端まで全てに現れている。あんたが苦戦する強弱やそれらの記号諸々によって強調される部分は主題である事が多いでしょ。あんたの弾き方じゃ、どれが主題で、大事なことなのか分かんないのよ」
「あー、なんか楽譜は手紙って説得力あるなー」
「言った男自身は説得力無いけど」
湯浅のため息が、携帯の着信音と重なる。
「あら、噂をすれば何とやら」
口ぶりからして、楽譜は手紙だと言ったその男。そして、湯浅に指揮者の道を断念させた男。卒業してから何年も経つのに、大学の講師と連絡を取り合っているらしい。何の驚きもないと言うことは、頻繁にやり取りをしているのだろうか。
伊沙子だったら、才能が無いと突き放されたら、もう二度とそいつとは会いたくも無いところだが。
「……別に、男と別れたからピリピリしてたんじゃなくて、喧嘩したからピリピリしてただけ。あんたはどうせ独身女がまた男と別れたな、とか思ってたんでしょうけど」
「めっそうもない」
わざとらしくそう言う。図星だ。
湯浅は来たメールを一通り見て、鼻で笑う。
「捨てないで、だとさ。後先考えずに私と喧嘩なんかするから」
携帯の画面を伊沙子に見せる。そこには、「捨てないで下さい」から始まる、随分と弱腰な文章が綴られていた。
湯浅は、不敵な笑みを浮かべるのであった。
強弱記号では、ffに対してpp。
長くもあり、短くもある人生においても、ffがあればppもある。まるで人一人の人生が一つの曲であるかのように。