僕が電車に乗り込んでから、二つ目の駅。
いつも僕と同じ車両に乗り込んでくる女の子がいる。女子高生だ。
いや、女子高生くらいなら、同じ車両に何十人もぎゅうぎゅう詰めになって乗っているのだが、僕が言いたい女の子というのは――。
出入り口のすぐ側、その子は片手で手すりを掴み、もう一方の手で黒いブックカバーの本を持って、器用に読んでいた。
そんな彼女に、いつも通り一人の女の子が近づく。
「イサミちゃん、イサミちゃん」
名前を呼ばれて、彼女――イサミちゃんは顔を上げる。
その後――何も無かったかのように無視する。
「酷いよ、イサミちゃん。無視なんかしないでよ。……イサミちゃん? ねえ、聞いてる?」
別に機嫌が悪いわけではないのだが、イサミちゃんは、友達の女の子をいつも無視して、マイペースに本を読んでいる。
友達の女の子は、確か、イサミちゃんが時々話すときに名前を呼んでいたが、アヤカちゃんといったと思う。
イサミちゃんとアヤカちゃん。
アヤカちゃんの反応は少し過剰で、イサミちゃんがいい加減に「ウザい」というまでハイテンションで一方的な会話……と言うより呼びかけが続けられる。
電車の中にはさまざまな声がある。笑いあう声、相談する声、何気ない日常会話。それらの中でアヤカちゃんとイサミちゃんが特に目立つわけではないが、だからといって、まったく気にかからないというわけではない。
毎日めげずにイサミちゃんに話しかけるアヤカちゃん。その姿が、イサミちゃんの冷たさを何倍にも引き出して見せてくれる。毎朝同じ電車で二人の姿を見るコトによって、いつしか、僕は彼女たちに心惹かれていた。
いや、“たち”というより……。
「アヤカ、ちょっといい加減ウザいよ。学校付くまで大人しくしてな」
僕の興味は、イサミちゃんにあった。
容姿は中の上ぐらい。可愛いが、だからといってずば抜けているわけではない。可愛さだったら申し訳ないがアヤカちゃんの方が上だろう。
だが、女の子は可愛さだけじゃない。
イサミちゃんの冷静を超えた冷徹で、人々を見下し、蔑むような視線。たった一度、偶然に目が合った時、体中を電撃が走るような間隔を覚え、知った。――これは……恋!
遠目で見ただけでは分からない、実際に目を合わせたものだけが知る、氷柱の様に冷たく尖った彼女の心。
嗚呼、あの視線。
何と心地良いことだろう。
僕は何度も、何度も、この電車に乗るたびに思った。
あの強気な眼差しを、その強さを残しながらも服従を余儀なくされた者のものに変えたら、どんなに僕のこの心を揺さぶることだろう――と。
ゾクゾクする。今でさえ、こんなにもゾクゾクする。
心身を駆け巡る彼女への想い。
――たまらん!
……と思いはすれど、公の場で彼女に何かすれば僕は痴漢扱い。
間違ってもそんなことは出来ない。必死に自分の中の野性を押さえつけ、電車の揺れに身を任せる。そうしている間に、電車は次の駅のホームへと入った。
高校へ通うために僕よりも一つ前の駅で降りていくる彼女たちの背を見て、名残惜しく思い、今度はホームを歩くイサミちゃんの姿を探す。
僕はもう、あの子に夢中だった。
ある晩、僕は夢を見ていた。
気が付くと、僕は電車の中にいる。いつものように、背広に身を包んで、ネクタイを締めて、僕は電車に揺られているのだ。
いつもの朝。いつもの出勤。
本当は布団の中でじっとして眠っているはずの僕は、夢の揺れに身を委ねるほどに、それが果たして夢なのか、現実なのか、判断が付かなくなってしまった。
二つ目の駅で、無表情のイサミちゃんと、そのイサミちゃんに一方的に話しかけるアヤカちゃんの姿を見つけたときには、僕の頭は、それを疑いの無い現実だと認識していた。
車窓には大粒の雨が打ちつけられている。
勿論、その雨の影響で、車床が濡れて滑りやすくなっている。それに加えて、いつもは人に挟まれてそんな心配もないが、今日は何故か車内がガランとしていて、下手をすると――なあんて、考えていたときだった。
ずるり――。
僕は、たった今心配した事を、自分の体で体現した。転んだのだ。
「うわぁ!」
だなんて、情けない声を上げながら、僕の体は滑る。膝を付くくらいの地味な転び方ならば良いのだが、ガランとした車内で、僕の体は滑る、滑る、滑る。
気づいたときには、僕の視界には生足が飛び込んできた。
黒いハイソックス。絆創膏を貼った、膝頭。
腿の中間あたりまでは健康的な小麦色をしているのに、それより上は白く、日焼けの後が無い。ハーフパンツの日焼け痕だ。
それから、それから、……可愛いドクロ模様の黒いパンツが見えた。
次の瞬間、磨り減ったローファーの踵が僕の顔にめり込み、気が動転しているうちに胸倉を掴まれる。
イサミちゃんだった。
次に僕が見たものは、暗闇の中の枕。それから、自分の腕。
鳴り止まぬ目覚まし。
冴えぬ頭が考える。果たしてそれは、夢が現か――。
五月蝿い目覚ましの電子音よりも、自分の中、自分の心臓が脈打つ音のほうが強く聞こえる。火照り、汗ばむ体に寝巻きが張り付いているのを感じる。
ゆっくりと息を吸って、熱を吐き出すように、息を吐いた。
よかった、現実だ――五感で感じるがままに、僕はそう思った。
僕はそれから、何晩も同じ夢を見続けた。
同じ夢を見続けて十日目の朝。
夢の余韻を感じながら、僕はまた電車に乗り込む。
ゆらり、ゆらり、僕は揺れる。揺れて、揺れて、段々瞼が重くなっていく。意識が遠のく中、僕の意識は突然の出入り口の開閉音に再び戻ってきた。
僕が乗ってから二つ目の駅。目にはいった出入り口から、イサミちゃんとアヤカちゃんが乗り込んでくる。
不思議と人が少ない。いつもと変わらない朝のラッシュのはずだと言うのに。
電車は、ホームを出る。
ぼっ、ぼっ、と、強い音を立てて、車窓に雨粒が打ち付けられる。雨が降っていたコトに今の今まで気が付かなかった。家を出てきた時にはまだ雨は降っていなかったから、今日は傘を持っていないんだよな。濡れるの嫌だなぁ――と、そんな思いが僕の頭を過ぎる。
僕は、肝心な事を忘れていた。
これまで幾度と無く自分が見た夢はどんなものだったことか。この条件下で、それを思い出せない自分の頭を恨んだのは、電車がカーブに差し掛かり、その勢いと足場の悪さでで、吊革を握る手が滑ってバランスを崩したその時だった。
僕は、滑る。
滑る、滑る、滑る。
僕は滑って、そしてまた、見慣れた足を、見慣れたドクロ模様を、この視界の中に見た。
■
「……と、いう夢を見たわけ」
僕は、電車の中で再会した高校の時の同級生に、その夢の全容を語って聞かせた。
「お前、それ、全部夢かよ。長ぇなあ。……で、そのイサミちゃんとは実際にそういう事ありそうなわけ?」
「バカ言うんじゃないって。イサミちゃんもアヤカちゃんも夢に出てきただけだっつーの。実際にそんな素敵な子が同じ車両に乗ってたら、そりゃあ嬉しいけどさ、今まで一度もそんな子見た事ないし」
夢の中で現実だと思ったことも夢。
夢の中の夢も、やっぱり夢。
現実ではそんな女子高生知らないし、第一、この朝のラッシュ時に滑って仰向けになるはずが無い。その前に人の壁にぶつかるだろう。
それに僕は、滑った拍子に吊革から手が離れるほどドジじゃない。
僕は笑う。
しかし、急に友は真剣な顔つきになる。
「でも、お前の異常な性癖に対する神様のお告げかもよ? お前、サディスト女を見つけるたびに『服従させたい!』とか言ってお近づきになりたがるじゃねえか。だからな、神様はお前が電車の中で、サディスト女に近づかないように警告してるんだよ」
「……そんな、知らない女にいきなり近づく僕じゃないってば」
「いいやー、お前はどうだか。俺お前が痴漢とか監禁とかで後ろに手が回ったら、高校時代の友人としてインタビュー受けて『あいつならいつかやると思ってました』って言ってやるよ。任せろ」
電車は、ゆっくりと速度を落としていく。
電車に乗り込んで、二つ目の駅。ホームへと電車が入る。
「しないよ、そんなこと」
僕の声は、騒音に掻き消されていく。
友はここで降りるため、一言「じゃ、女に気をつけろよ」と言って、出入り口の方に歩いて行く。僕は何気なくその背中を見ていたが、開閉音と共に出入り口が開き、友が電車を降りたその時、――目を疑った。
友が降りる。
そのすぐ横を、女子高生がすれ違う。彼女らの姿は夢に出てきた姿そのものだった。
一人は、出入り口に近いところで、手すりを掴む。空いた手で黒いブックカバーの本を持ち、器用に読んでいる。
もう一人は、その本を読んでいる子にしきりに話しかけるが、ずっと無視されている。
僕は、その二人があの二人であるのか気になり、ほんの少し近づいて行く。思いのほか車内は動きやすく、邪魔になる人があまりいない。人がいなくて、……朝のラッシュに似つかわしくないスカスカの車内。
電車は、ゆっくりと発進。
ホームの屋根の下を抜け、激しい音を伴って、車窓には雨粒が打ち付けられる。
僕は、思わずたった今入ってきた乗客の足元を確認した。
濡れている。
僕の足元は……やはり、濡れている。
心底、これはまずい、と思い、僕は強く吊革を握る。
体中の毛穴から汗が滲み出る。僕の脳裏に、夢だったからこそ無事だった最悪の状況が過ぎった。僕は、友の言葉を思い出す。
――『あいつならいつかやると思ってました』って言ってやるよ。任せろ。
僕、やばい。
電車はカーブに差し掛かる。
足場は滑り、そして、汗ばんだ僕の手は吊革を握り続けていられなかった。
滑る、滑る、滑る――。
ドクロパンツは、夢か、現か――。