細く引かれた銀糸の雨が、強く傘を叩いていた。
傘の表面を伝い、雫は端々から流れ落ちる。数多の雫に肩は濡れ、着物に染みこんで肌へと触れた。冷たい。風に晒され、余計に寒さが堪える。傍らの華奢な肩を抱き寄せ、一つの小さな傘に収まろうとすると、着物越しながら、ほんのりとした温かみに触れた。
心地のいい温度だ。
しかし、すぐさま、駒之介の腕の中で女が身じろぎをした。駒之介は、僅かに腕を緩める。
「……一つの傘では心許なかったか。ひとまず何処かで雨を避けるのが良いだろうか」
「そうでございますね」
目を伏せて、女は言った。先ほどまで男勝りに振る舞っていた娘が、急にしおらしくなって、蚊の鳴くような声を出している。ふっくらとした愛らしい頬に赤みが差しているのは、まさか体調の悪いせいではあるまい。
贈った飾り櫛の映える女になった。
駒之介は、一度は緩めた腕で、もう一度娘の肩をきつく抱いた。
「ちょうどその角に茶屋がある。顔が利くから、離れの座敷に通してもらって」
口を娘の耳元へ近づけて、呼気を多く含ませて「どうだろう、永い一服でも」と囁く。娘は一層赤くなり、耳まで染めて、しばらくの後、静かな声で確かに「はい」と返事をした。
開いた口から白い歯がのぞく。その奥。愛らしい顔面の中、艶やかな唇に飾られたその奥。淡い赤色の舌先が、言葉を紡いで蠢いていた。
よい、舌である。
これが、五つ目。
白く湯気を吐く茶が冷めるのを待つ間に、番所に今朝見つかったという新しい雀――その骸が運ばれてきた。茶碗に口をつけたはいいが舌先も触れられぬような茶を置いて、卯田清正はゆっくりと腰を上げる。
筵の下から、女の細い足首が見えていた。
「身元は分かっているのか?」
「偏屈な国学者の娘で、名はおしげ。本人は器量よしでかなり評判がよかったんですが……」
手下に骸を回収させてきた岡っ引きが、そう言って口を噤み、唸る。
市井のことは清正よりもこの岡っ引きの方が詳しい。口ぶりから察するに、知った顔だったのだろう。器量よしだろうとなんだろうと、死ねばただの肉だ。清正に使われ、ここでいくつもの死人を見たこの男も、まさか知る顔がここで筵を被って横たわるとは思わなかったろう。それも、自分がこのところずっと調べを進めている雀の事件でとは。
情に厚いこの男は、自分の無力さを悔いているのかも知れない。
生憎、清正はこの男ほど感情的にはなれなかった。
一昨年父を亡くしてから、外を見る目が曇った気がする。内はさらに淀んでいて、目を向ければ眼球が腐って落ちそうだ。長く息を吐く度に、やせ細った母の虚ろな顔が頭に浮かぶ。
ただ、この度重なる雀の事件は、脳裏から一時母を追い出してくれていた。
世間が温恭院殿御追善の為にざわついていたことも記憶に新しい頃、最初の雀が川に浮かんだ。もっとも、その頃はまだ雀と呼ばれてはおらず、少なくはない類の、溺死体と見られていた。
彼女は、料理茶屋の座敷で情を売っていた。この町に点在する中では一番高い店の女で、当人もそれを自負するあまり相当な高飛車だったという。野次馬の中には半ば冗談めかして、殺されこそすれ身投げをするような女じゃない、という者もあった。
状況が一転したのは、形式的にでもその女の骸を見聞していた清正が、ふと、半開きの口元を覗き込んだときである――。
それから、三月。あの料理茶屋の女と同じような死体が、これで五つとなった。
二つ目は商人の妻で、ふくよかな年増女。三つ目は、大店で番頭をしていた好青年。四つ目は、年端もゆかぬ幼い少女。そして、五つ目がこの骸である。
筵を捲る。
「学者というのは、儲かるのか」
「さて、しかし、あの先生はまったく。のんべえらしくて、酒代が高く付いてしまうもので娘も困っていたそうです」
「金に困っていたにしては」
清正は目を落とす。その視線を追い、岡っ引きも娘へ視線を投げて、「確かに……」と低く呟いた。
女の着物は上等で、金に困っていたとは思えない。裕福な商家の娘の出で立ちならばいざ知らず、酒代にも困るような家の娘が着るものではない。髪に挿した飾り櫛も華美である。
「金持ちの男でもいたんだろうな」
「そんな噂は聞きませんがね」
「情事の半分は噂には上らないもんだ。親分、この娘はよく知っているのか?」
「旦那のお屋敷から一本外れた通に、小料理屋があるんですがね。そこはなかなか美味いものを出す店で……」
この岡っ引きは、もう四十五になる。父が死んだ時の歳と同じだ。老いるとどうにも人は無駄話を好むらしい。
「結論は」
「すいやせん、そこで働いていたんでさ」
「この女は普段からこんな恰好で出歩くのか?」
「とんでもない」
岡っ引きは、大げさに手を振る。
「そこは値は安いが美味いってんで、いろんな客が来るんです。座敷に上がって飲み食いする中には、大店の主人なんかも。それなのにこの子の着物が店に出せないほどみすぼらしくて、気立てのいいそこの女将が自分のお古をやったなんて話もあるくらいで」
「となればやはり十中八九男だろうな。贈られた着物と櫛でめかし込んで、逢い引きに行っていたんだろう」
会う約束をしていたか、会いに行ったその帰りだったか。結論を急くのはよくないが、男に舌を切られたという可能性も否めない。最初の雀が出てから、これで三月、既に五人目。下手人が舌を切る目的も、どんな奴かも分かっていない。
ともかく、雀の周りを手当たり次第に調べるほかはなかった。
「男を捜しますか」
そう問うた岡っ引きに、清正は頷き返した。
「それから、女将のところにも人を遣れ」
「へい」
返事をして、岡っ引きは控えていた手下にそれぞれ指示を出して送り出す。
「親はいつ仏を引き取りに来る?」
「今手下の一人が知らせに走ってます。すぐに来るでしょうね」
「そうか……その前に始末をしておくか」
一見目立った外傷もなく、その美しさをとどめた死に顔ではあるが、その口を覗き込むと、口いっぱいに花びらを詰め込まれていた。ちらちらと白い斑点の見える、茶褐色の花びら。それは、女の口の中で女の血に染まった、雪中花であった。
下手人は、これまでの全員の口の中に、花を摘めている。季節の、色の薄い花だ。それらはいつも、口の中で血に染まって見つかる。最初の雀も、川の中で大半は流れ出たようだが、僅かに残った花びらを見つけた。
雪中花をほじくり出し、よくよく暗い腔内を覗き込むと、そこにあるべきものがない。それが、その五つの骸の共通点だ。
揃いも揃って、舌がない。
彼らを呼ぶにいつしか雀という名が使われるようになったのは、昔話の舌切り雀になぞらえてだろう。
死人に口なしというけれど、これではあの世で囀る舌もない。他に外傷もない彼らは、ただ、舌を奪われただけで、死んでしまった。こともあろうに、命の終わりの寸前に言葉を放つ術までも奪われてしまった。
こうはなりたくない。清正は筵を被った骸に視線を投げて思った。己は地獄でも囀る気はある。それも出来ぬ五つの骸には、同情を覚えた。
とはいえ、下手人捜しには気が乗らなかった。はじめは熱意ある報告をして済まそうかとも思ったが、下手人が気の向くままに、たびたび舌を切って殺して既に五人だ。上役からは巷が騒がしいことを指摘されている。
きちんと仕事をしなければならぬ。
すべての雪中花をかきだして、再び筵を被せる。ちょうど茶の湯気も立たなくなった。両手を洗って茶を啜り、清正は、長く息を吐いた。
「茶請けが欲しいな」
それから暫くして、赤い顔をした女の父親がやって来た。昼間から酒を飲んでいたらしく、番所が急に死人の匂いから酒の匂へと変わった。人違いだろうと憤慨しながら筵を捲った父親は、一気に血の気を失って、狼狽し、泣き叫んだ。
死体が一つ見つかったことなど余所に、昼下がりの町は安穏としていた。
あるいはこの中で、雀のことを囁く者がいたかも知れないが、少なくとも、岡っ引きが言っていた小料理屋や娘の家からは遠いそうだから、鬱々とした様子はない。
甘味茶屋ひの屋の暖簾の奥で、若い娘たちが楽しげに談笑する声が聞こえる。死んだ女と、おそらくは同じ年頃だろう。
入るか、入らぬか。少し離れたところから暖簾を見つめて考えていると、ふと、清正より手前に、みすぼらしい恰好の童男が立ち通しているのが見えた。背中に荷を負ぶっているから、どこぞの店の小僧かも知れない。物欲しそうな目でじっと見つめていた。
またしばらくすると、若い男があんころ餅をのせた皿を持って、店の外に出てきた。
「ほら、ちょっと焦がした餡だが、これでもよければ」
男はしゃがみ込み、童男に向かって、皿を差し出した。途端に童男の表情は明るくなって、喉に餅を詰まらせる勢いで口に運ぶ。男は、それを嬉しそうに微笑みながら見ていた。
「美味しい?」
餅を飲み下して、童男は頷く。
「はい、でもいいんですか? いつも」
「店には出せないから」
「ちょっと焦がしたくらいで?」
「ちょっとが駄目なんだ。でも上手くなったろう、私も。そのうち祖父が店に出してもいいと言ったら、またお前に味見を頼むよ。その時は金はいらない。でも、その次は金を取るからな」
そう言う男の顔には、優しい微笑みがあった。
彼なりの、激励なのだろう。どこぞで小僧として働くその童男に、早く稼いで客になれ、と。甘味は娯楽だ。飯を食うのが精一杯、そんな奴が、世の中にはたくさんいる。
童男は男に礼を言って、道を真っ直ぐ進んでいった。
それを見送った男が、立ち上がる。店の中へ戻ろうと、くるりと向きを変えた男の目に、どうやら清正が入ったらしい。僅かに呆気にとられた顔をして、それからすぐに、にこやかに微笑んだ。
彼は、このひの屋の若旦那だった。
「卯田様、おいででしたか。すぐ声をおかけ下さればよいのに」
「いや、何をしているものかと思ってな。また餡を焦がしたのか」
「卯田様もいかがです?」
「遠慮する」
「そうでございますか……残念です。上がられますか?」
足がここへ向いたのは、無意識だった。話をしたかったのかもしれない。人には聞かせられない話だ。ただの愚痴でもある。吐く相手は、この男の他にはいない。この男が清正を理解してくれることもないが、それでもこの男の他には話せる相手がいなかった。
けれども、今、岡っ引きやその手下が走り回って仕事をしている。
人が死んで間もない時に、自ら感傷に浸るのは愚かだ。おしげの死は、雀を一羽増やした。そして、清正の目を、外へと向けさせてくれる。
「今日は止めておこう。茶請けにいい菓子はあるか?」
「それでは羊羹をお包みしましょう。お代は結構です」
「いいのか? 俺はお前の失敗作ではなく、品物を要求しているんだぞ」
若旦那は、ふっと笑った。
「卯田様からお金を取ろうものなら、叱られてしまいます。中へ入ってお待ち下さい」
「ここでいい。中は空気が合わん」
「では腰掛けてお待ち下さい。すぐに戻ります」
そう言って、若旦那は暖簾の奥へ入っていった。店の前の長椅子に腰を下ろすと、すぐに娘が盆に茶をのせて出てきた。店の誰かが声を聞きつけて指示をしたのだろう。
「卯田様、どうぞ」
「結構だ」
「熱くはございません」
娘は、茶を下げるではなく、なおすすめてきた。
「さては、あいつが言い触らしたな。まあいい、いただこう」
以前ここで茶を貰った時は、あまりの熱さに舌を火傷したかと思った。いつもあれを客に出すというのだから、自分の舌がかなりの猫舌であるらしいと実感する。あるいは猫より酷いかもしれん。
「心地よい熱さだ。これもあいつの指摘か?」
「いえ、若旦那もあまり熱いものはお好きでいらっしゃらないので、いつもそのくらいの熱さでお出しするんです。卯田様のお好みは分からなかったので、それを目安に」
「左様か。美味い茶だ」
「もったいないお言葉です。では、ごゆるりと」
頭を下げて、娘は店の中へ入っていった。確か、おくみとあいつが呼んでいるのを聞いたことがある。十三の頃に奉公に来て以来というから、この店も長いのだろう。
茶の温さは、見事だった。
間もなく、包みを手にした若旦那が出てきた。清正は視線を投げて、
「お前も猫舌か」
嘆く思いで言い放った。
「誰に似たというわけでもないのですがね」
「俺もだ」
清正は茶を置いて包みを受け取る。立ち上がり、暇を告げようと開いた口が、何となく気にかかって「お前の母親は元気か」と言った。暫く前になるが、ここの女将がどうにも具合が宜しくないと噂に聞いたのだったと思い出した。もしかすると、それがここへ足を向かわせた一因であったのかも知れない。
「そういう話を中でなさればよいのに」
「ただの世間話だ。元気か、元気でないか、それだけを教えてくれればいい」
若旦那の顔に、影が差す。
「虚弱とは申しませんが、母はもともと丈夫な方ではありませんから。正直に申し上げますと、元気ではございません。先月伏して、ずっと寝込んだまま。回復にも相当時間がかかるだろうと、お医者様は仰っております」
「そうか。大切にしてやれ」
「はい。卯田様にそう仰っていただけたのですから、母も喜ぶことでしょう」
嬉しそうに言うけれども、その表情は硬く、ぎこちない。女将の容態は言葉以上に悪そうだ。下手をすれば回復などしない可能性もあり得るかも知れない。
母親か。
清正が母を想う気持ちは、いつも薄暗い。家に帰って向き合うのは、かなり酷であった。清正は若旦那に羊羹の礼と別れを告げて、茶屋を後にし、暫く番所で時間を潰そうと足を向けた。
結局、下手人の手がかりも掴めないまま、おしげという女の情事の相手もわからぬまま。家で母の世話をする時間だけが増えていった。
餡の匂いに、焦げ臭さが混じる。また、小豆を無駄にした。
爺さんは孫に甘いたちだが、味には厳しい人だ。母が病に伏せった今は、隠居の爺さんが師匠である。師匠として、いつまでも一人前にならない弟子を叱責する。父は味よりも金勘定が仕事だから、いたずらに材料を無駄にしたと怒る。怒られるのは、好きじゃない。
餡を溶いて、汁粉にする。
お前の餡で、汁粉をおくれ。と、母は掠れ声で囁いた。
病床の母は、大の甘い物好きだ。母が生まれたときには、爺さんは既にこの店を持っていたから、その舌は幼い頃から甘味に親しんでいる。爺さんの餡を、母が継いだ。けれどもその母は、今、病に伏せっている。
早く、一人前にならねばならない。
けれど、心が急くことを母は咎める。他念があるから、焦がしてしまうと。弟子の、そして息子の成長を心待ちにする母に、いつまでも焦げ臭い汁粉を差し出すわけにもいかないが、胸が他念にざわめくことはどうしようもなかった。
人を欺く者は、常に周りを警戒しなければならない。後から突かれたのではかなわないからだ。
いい加減に、この欲を抑えてしまわねばならぬ。快楽に満ちても、刹那に消える。満ち足りた後は、いつも虚しい。欲しているときが、もっとも心が豊かだ。
それでも、欲しい。欲しい。欲しくて、たまらない。どこからわき出るかも分からない欲の中で、愚かにも、また繰り返す。
母に渡す椀を手に、ため息を吐いた。
「……若旦那」
背後で、声がした。おくみの声。振り向くと、不安げな瞳がこちらを向いている。
「ああ、おくみさん。どうしたの」
「なんだか、元気がないように見えましたから……どうしたのかなって」
「母さんにね、おれの餡で汁粉をくれと言われたんだ。練習がてら煮て、また焦がしてしまった。おれはたぶん、向いてないんだろうな」
鍋を覗き込んで、肩を落とす。
「そんなことありませんよ」
そう言うと、おくみは慌てて飛んできた。
「大旦那様だって上達していると仰ってますもの。大丈夫です、若旦那はきっと立派な店の主になりますよ」
おくみは、奉公に来てもう八年になる。歳は三つ上だ。周りは大人ばかりで、三つ上だといっても、まだあどけなかった彼女にはよく慣れ親しみ、何でも相談した。遊び相手にもなってもらった。
子供の頃の話だ。
今は、立派な女だ。
二十を超えた。嫁入りには時期も遅い。一度縁談があったが破談になって、二度目の話を考えていた時期に、母が病に伏せった。縁談どころではなくなってしまった。その後も母は回復しては悪くなるの繰り返しで、先月伏したのも、それを引きずっていた。
美しくなったこの女の貰い手は、本当ならいくらでもある。世間ではもう行き遅れだと言われる歳だが、貰いたいという声はまだ尽きないでいた。けれども、彼女は嫁入りを望まなかった。
女将を慕っていたからだ。
店に尽くさせて欲しい。彼女は嫁入りを断ってそう言った。彼女の言葉は、力強かった。
「そうだね、とりあえずおくみさんが安心して働ける店にするよ。おれの代で潰れないようにさ」
「そうですよ。若旦那が旦那様と呼ばれることには、わたしもきっとお局様でしょうから、潰されては困りますからね」
ふふっと、おくみは笑った。
「わたしも味見をしても?」
「いいけど、文句ならこれから母さんと爺さんにウンザリするほど言われるんだ。不味くても、どうか胸に秘めておくれよ」
「それは味次第ですね」
おくみは鍋を覗き込んで、しゃもじですくい取った餡を細い指先で撫でる。「いただきますね」と振り向いて一言述べてから、口から、指先へ、その舌を這わせた。
何の気なしに、それが目にとまった。
ぞくぞくする。胸がざわつくのがわかった。
「前のよりずっと美味しいですよ。女将さんも喜んで下さいますって」
「……そう、かな」
唇が震えそうになる。
それを不思議に思ったか、彼女は首を傾げる。
「どうなさいました?」
「なんでもない。おれはこれを母さんのところへ持って行くよ」
「はい。わたしも仕事に戻ります」
にこやかに微笑んで、おくみは先に厨を出て行った。
正気も狂気も分からない。その境目も、自分がどちらに立っているのかも。ただ、そういう愛着が、己を異端たらしめているらしいと言うことだけは分かる。世間が自分を見る目は、狂者を見る目だ。それは確かだ。
それでも、この心は、手に入れなければ満ち足りぬ。どうしても、欲しいのだ。あの、七つ目の舌が。
母は、痩せこけたせいか、老婆のようにも見えた。まだ四十にもならぬのに。
十日前に卯田清正が顔を見せてから、随分容態が悪くなった。悪化と回復を繰り返すにつれて、悪くなる程度も酷くなったように思える。近頃は体を起こすのも辛そうだ。
「母さん。持ってきたよ」
そう呼びかけると、母は顔を襖の方へ向けた。
椀を置き、起き上がろうとする母の背中を支えてやる。
「具合はどう?」
「よくない。子供の頃から随分病気にはなったけど、こんなに酷いのは初めてだよ。もう助からないかも知れない……」
「前に酷くなったときも同じことを言っていたよ。それからまた良くなったじゃないか、今度も良くなる」
口では何とでも言える。けれども、母が言う通り、もう快方に向かわない可能性も否めない。母は随分弱った。
「それより、汁粉をちょうだい。今度の餡は上手に出来たの?」
押し黙って、椀に手を伸ばす。ややあって、「ううん」と答えて椀を手渡した。
「そう。せめて母さんの生きているうちに、一人前になってちょうだいね」
「頑張るよ」
母は、椀を嗅ぐ。それから、匙ですくって、口に含んだ。
いつも、こうしている間だけは生き生きしている。まるで先ほどまで助からないかも知れないと言っていたとは思えないくらいに、生者らしい顔つきをして、味を確かめている。
頬もこけ、腕も細くなった。
けれども、昔からちっとも変わらないものがある。ぬめる匙を這う舌は、いつも艶めいていた。腔内で蠢いて、その味を確かめる。
いつからだろう。
精通を経験してから。いや、それよりずっと前から。思い返しても思い出せないほど、ずっと前から、この舌の気味の悪さを知っていた。そして同じだけ、美しいと知っていた。思えばこれが、一つ目だった。
椀を腹の前に下げて、母は息を吐いた。
「どう?」
「すこし焦げ臭い。でも、前よりマシになった。おまえのことは爺さんに任せているから、あたしはあまり口を出さないことにするよ。随分寝込んでいて、舌もまともじゃないかもしれないし」
そう言って、母は残りの汁粉をゆっくりと飲み干した。
それから、ややあって、重たい声で「駒」と、名を口にした。
「いいね、医者が匙を投げたら、その時は、後生だからあの子を連れてきてちょうだい。最後に一度で構わないから」
椀と匙を駒之介に押しつけて、母は再び蒲団に横になった。
その日。
朝からずっと雨が降っていた。車軸を返すような大雨で、道がどこもかしこも水浸しになっていたためか、客の入りが良くなかった。どこの店もそんなものだろう。中には暖簾を掛けていない店もある。
昼を過ぎて、さらに雨脚が強まった。
世間は一時期、五人目の雀のことを騒ぎ立てたが、それも既に収まって、もう二十日が過ぎようとしている。
おしげの舌は、勝ち気な舌だった。紡ぐ言葉の一つ一つ、境遇は決して良いとはいえなかったが、幸せに生きる女だと知った。惚れた六つ目の舌だ。
彼女の舌を欲しいと思った。体をいくら重ねても満たされない情欲を、人の舌先は、くすぐり、招き寄せた。ずっと欲しいと思っていた舌を、ちょん切って、手に入れた。
それがもう、ただの残骸になってしまった。彼女のだけじゃない。どれもこれも、干からびて、言葉を紡がない。また、新しい舌を手に入れねばならぬ。
鬱々と降り続く長い雨が、駒之介を暗く、押し込める。雨は嫌い。吐き気がする。
駒之介は、部屋にごろりと転がって、天井を眺めた。
「若旦那」
襖の向こうで、聞き慣れた声に呼ばれた。
「おくみさん……」
「失礼します」と、おくみが襖を開けて入ってきた。
「また雨が酷くなりましたから、午後は店を閉めるそうです」
「ふうん」
「何かお茶菓子でもお持ちいたしましょうか」
「いや……いらない。食べたくない……」
ゆっくりと身を起こす。目を、おくみへではなく、雨に打たれて濡れている、外へ突き出た張り出しに向けた。
「最近ふさぎ込んでいらっしゃるようだから、みなさん心配していますよ。どうなさったんです」
「うん」
「うんじゃ分かりませんよ」
呆れたように息を落とす。おくみが体を動かす気配がした。部屋を、出て行こうとしていた。
「今度、一緒にお茶屋さんでも行こうよ。ねえ、いいだろ」
「ここもお茶屋さんです。馬鹿なことを言わないでしゃんとして下さい。それとも、何か、人に聞かれたくない話でもあるんですか?」
さすがに、子供と違って断り方くらい心得ていたらしい。誘いには乗らない。
行為では満ち足りないが、閨の中は女の舌を愛でるに理由などいらなかった。舌に触れても、女は駒之介を狂者と見ない。舌を重ねれば、むしろ喜ぶ。それに、場所は肝要だ。
「仕方ないな……じゃあ、夜に来て。出来るだけ、忍んで」
おくみは聞こえるようにため息をついた。
「遊びはいけませんよ、若旦那」
「遊びじゃないって言ったら」
「人をからかうものじゃありませんよ。若旦那……私は」
駒之介をおくみの瞳が睨む。けれども、言葉が途切れ、瞳にかかっていた呆れが、薄らいだ。おくみは、畳に視線を投げて、「夜に、また来ます」と呟き、逃げ出すように出て行った。
「なんだ、出会い茶屋が駄目でも、おれの部屋なら構わないのか……」
存外、尻の軽い女だったらしい。構わない。それで、じっくりと舌を愛撫できるなら、一夜限りでも、何晩でも、好きなだけ遊んでやろう。そうしていずれ、納めてやる。六つ目の桐箱は、もう用意できていた。
顔も知らない実の父親から貰った煙管を久方ぶりに取り出して、煙で胸を満たした。
「――晄正……どこだ、晄正……」
母の声が、聞こえた。
清正は、読みかけの書物を閉じて、廊下へ目をやる。
母は、幽鬼のように歩き回っていた。母の世話のために置いている、おちかという奉公人が、母を追って廊下に出ていた。必死に宥めているが、ああなった母は、しばらく止まらない。
しかし、歩き回られてはおちかが可哀想だ。立ち上がって、清正も母の元へと向かう。
「母上」
呼びかけると、ぎょろりとした瞳が、こちらを見た。
父が死んで間もなく、この母は病に伏せった。病状は良くなったが、頭の方は、とうとうまともでは無くなってしまった。夫を失い、他人しかいない家の中が、堪えられなかったのかも知れない。
「晄正……」
母は、我が子の名で清正を呼んだ。
「晄正、どこへ行っていたのだ……どうしていつも、母に顔を見せてくれなんだ」
「母上、私は晄正ではございませぬ」
そう返答すると、母がものを言うより先に、おちかが清正を批難するような目で見た。普段は、清正を晄正と思わせておけば、勝手に落ち着く。どうして、わざわざ機嫌を逆なでするようなことを言うのか、おちかの目が問うていた。
清正も、機嫌がすこぶる悪かった。母の戯れ言を肯定してやれるほど、冷静では無かったのだ。
「何を言う、晄正」
「晄正ではございませぬ、清正にございます」
「清正だと……」
一気に、母の目の色が変わった。
母は、清正の襟首に掴みかかる。皺を刻んだ細い指が、清正の着物を強く握っていた。
「晄正はどこじゃ」
「どこにもおりませぬ」
「お前が、お前が隠したのか! 清正!」
母の怒声は、酒の沁みた頭には煩わしいものだった。この母を、いっそ斬り殺せたら、と思う。怒りにまかせて母を切るほど堕ちてもいないが、時たま、確かに殺意が芽生える。
「母上、お放し下さい」
静かにそう言うと、母の手は着物を掴んだまま、清正の胸を打った。
「お前など! お前など、出て行け! 妾子の分際で、なぜお前がお役目を!」
荒々しく、母は襟から手を放した。
おちかに宥められながら、部屋へと戻っていく。最中、また、「どうしてあんな子が」と言葉を落とした。どうしてかは、俺の方が聞きたい。清正は、柱に背を預けて、老いた母の姿を見送っていた。
そもそも、選んだのはあなたじゃないか。
元服した歳、晄正は死んだ。冬、屋根から足を滑らせて、ころっと死んだ。母の大事な猫が、屋根から下りられなくなっていた。それを助けてやろうとしたのだという。卯田家の正月は、ひどく沈んだものだったそうだ。
けれども春、奉公に来ていた商家の娘が、子を産んだ。
選んで、奪ったのは、母だった。自分の子では無いけれども、子を失った悲しみを子で埋めようとした。
この母は、実母から清正を奪い、清正から実母を奪った張本人だ。それを、今更どうして、自分の子ではないなどと言えたのだろう。
一昨年、父が死んで、母が伏せった。せめて母だけは失いたくないと願ったのが通じたか、呆けはしたが、死にはしなかった。けれど、生死の境をさまよって戻って来た母は、清正を妾子と呼んだ。全く知らぬ話だった。
あの女は、もう母ではなくなってしまった。
暫くそのまま、風に当たっていた。風はまだ冷たい。
ふと、風向きが変わった。雨が、清正の足に一粒二粒、落ちる。もう部屋に戻るのが良いだろうかと頃合いを見たその時に、「旦那、旦那」と、声がした。岡っ引きの声だった。雨傘を被って、駆けてきた。
「どうした、親分。まあ、上がれ。茶でも出すぞ」
「すいやせん」
礼を言って、岡っ引きは縁側に上がった。
「何か分かったことでもあったか?」
「へい。おしげの着物の贈り主のことでさあ」
「ほお、それで。誰だった」
「ええ」
僅かに、焦らすように間を置いて、しかし、清正の長話を好かない性格を知ってだろう、すぐにおしげの相手の男のことを喋った。
「甘味茶屋ひの屋の若旦那です。名は確か」
「樋野駒之介、か」
岡っ引きは「へい」と短く返事をした。
動じていた。着物の送り主が知れただけだ。あの男が、下手人だと決まったわけではない。けれども、その名が出たのが、胸くそ悪かった。
「失礼します」
夕餉の後で酒を飲んだ。少し、のつもりではあったが、どうやら自分で思うよりも呑んでいたらしい。頭がぐらつく中に、女の明瞭な声だけが響いて、やがてゆっくりと瞳を開いた。
「若旦那、寝ていらっしゃるんですか」
「起きた」
痛む頭を抑えながら、体を起こす。女を呼んでおきながら、夜具の用意がなされていない。寝ぼけ眼で暗闇の左右をきょろきょろと見ていると、おくみが側へ寄って湯飲みを差し出した。
「お水を」
「随分用意がいいんだね」
「先ほど一度来ましたが、どうやらお酒が入って寝ているご様子でしたので。これでお起きにならなければ、お誘いは無かったことにしようと思いました」
「良かった。起きられて」
とはいえ、おくみの機嫌はあまり良くないらしい。誘ったときも乗り気では無かったが、どうにか呼びだしたというのに、寝ていたことで酷い扱いをしてしまったようだ。無理もない。
水を一気に飲んで、駒之介は言う。
「ごめんね、おくみさん。今蒲団を敷くから」
「結構です」
彼女はきっぱりと言い放った。冷たい。
「……怒ってる?」
「怒ってません。それより、きちんと申し上げなければならないことがあって参りました。近頃、以前に増して夜お出になることが増えましたけれども……あまり夜遊びをなさらないで下さい。ちゃんと奥様をいただいて、店を守っていただかなければなりませんのに」
「説教か」
駒之介は舌を鳴らす。
「よしてくれよ。そのうち嫌でも縁談は来る。それまで好きに遊んだっていいじゃないか」
「良くありません。近頃は物騒です。夜はお出にならないで」
「例えば、何が物騒だと」
問う。
彼女は、真剣な瞳で「雀」と小さな声で答えた。
やがてその雀の六つ目になる女だ。今までの雀は、誰一人自分がそうなるとは思いもせず、この狂者の前で愚かにも口を開いて舌を切られた。少年も、少女も、年増もいた。美しい舌を持っていた者たちだ。
おれが、殺した。この手に掛けた。――そう口走ったら、この女は、どんな顔をするだろうか。そんな下卑な妄想が、ふっと、湧いて出てきた。
「おれの心配をしてくれるのか? この、おれの」
「そうでございます」
そう言って、にじり寄る。哀れな女だ。
おくみの襟を掴んで、駒之介はその体を引き寄せた。「やっ」と、短い悲鳴が上がる。強気に駒之介を見つめていた瞳が、一気に不安に変わった。まさか会いに来た口実を忘れているわけではあるまい。覚えているからこそ、体を萎縮させているのか。
手早く帯を解いて、襦袢姿に剥いてやる。
「おくみさん、おれが何のために呼んだか忘れたの」
意地悪くそう尋ねると、僅かな沈黙の後に、
「好きになさって下さい」
と震え声で言った。
真面目な女性だ。いつも店のことを考えて、男なんて眼中に無かったような。おそらく経験は無いだろう。駒之介をたしなめることは出来る。けれども、強いられて拒否は出来ない。そんな彼女を、よく知っている。
外は、しんと静まりかえっていた。もう、雨の音も無い。駒之介の部屋は、他の人間の寝室と離れているから、耳を澄ましても寝息の一つも聞こえない。
障子に光が当たっている。
開けると、雲間から月が出ていた。
月光の下で、おくみの下あごを掴んだ。口を開かせる。いやがって、言葉を発そうとする。言葉にはならない音が、か細く、喉の奥からもれ出していた。
舌が、もがく。
舌は、異様だ。そんなものに愛着を抱く駒之介より、よっぽど異様で、不気味だ。うねる肉、小さな突起、すがたかたち、その色すべて。気持ちが悪くて、それでいて、美しい。刺激的で、魅力的で、性的興奮を煽る。
駒之介は、おくみの腔内に指を這わせた。ぬめる肉壁、蠢く舌、弄ぶように撫で回し、奥へ、奥へと這わせる。そのうち、おくみ腔内が、波打った。指を排除しようする。おくみが、僅かに唸った。
「辛かった? ごめんね、次は優しくするから」
まだ、物足りない。既に唾液と粘液に濡れた指先を、もう一度腔内に潜り込ませた。
おくみは辛いとは言わない。けれども、人に口の奥まで指で弄られるのは、あまり良い感覚ではないだろう。今まで、何人もの舌に指を這わせた。下手をして吐かせたこともある。
潤んだ瞳が、諦めと懇願のどちらもの意をもって、駒之介を見つめていた。
「ねえ、おくみさん」
重く沈んだ、響かぬ声で彼女を呼んだ。
「あなたはあの事件のことで物騒だと、そう言ったね。けれども、本当はね――」
そこにあるのは、下卑な妄想。この口が、囁きたがる。
おくみを、不幸にしてやりたいわけじゃない。だけど、どうしてか、その舌を奪う瞬間まで口を噤んでいることが出来そうも無いのだ。舌先が、踊るような感覚。喉元で言葉が暴発しそうな。そして、それを聞いて、おくみはどんな顔をするのか、楽しみで仕方がないという下劣な楽しみ。
酷い人間が、この世にいた。誰より、腐った人間が。
「おれが、あいつらの舌を切った悪党だ」
言葉とともに吐く息が、とても重たく気管をすり抜けてきた。吐いてしまえば、胸も軽く。その軽くなった胸に、ついに言ってやったという下卑た誇らしさと、後戻りを許さない悔いが芽生えた。
おくみの腔内を這い回った指を、ゆっくりと抜いた。
また苦しげに咽せた後で、おくみは、駒之介を見つめた。
「若旦那……だから、だからこそ心配だと言うのに……」
ぼろぼろと、涙がこぼれて、落ちていく。耳を疑ったのは、駒之介の方だった。
「そんなこと、桐箱が……桐箱がまだ一つだったころから……」
泣き声の中に、声は溶け込んでいった。
ああ。下劣なおれを、はじめから、この女は見ていたのか。――どれほど、彼女と顔を合わせただろう。店の中、家の中、部屋の中……どこにでも、ありふれた笑顔で、弟をたしなめる姉のような顔で、若旦那の成長を見守る奉公人の顔で、どれほどでも、顔を向け合った。
桐箱がまだ一つだった頃。あれから随分経った。
言葉は用意されているのに、舌が上手く言葉を紡げずにいた。暫くしてようやく、
「知っていたのか」
と、言葉が溢れた。気の抜けた声だった。
「若旦那、新しい桐箱を……用意、なさいましたね……。それは、私のための箱なのでしょうか……?」
助けを請うような目では無い。確認だ。
「そうだ。そのために、作った」
答えは、先ほどよりもすんなりと口からあふれ出た。
「そう、ですか。私の舌くらい、若旦那がそれで満足なら差し上げます。それで……死んでも……。でも、そのかわりに、どうしても守っていただきたい約束があります」
「なに」
「絶対に、捕まらないで。卯田様は……とても鋭いお方と思います。だから、できるだけ、近づかないで……」
駒之介は、押し黙った。
そんなことを、どうして言うのだろう。どうしてこの女は、恨み言を言ってはくれないのだろう。切るに切れなくなる。奪えなくなる。やめろ。
「それと、私の分も……女将さんを大切にしてあげて下さい」
おくみがそう言い終わったと同時に、駒之介はおくみの頬を張った。乾いた音が部屋に響く。おくみの頬は赤く腫れ、白い手が、頬を擦った。
これで、駒之介を恨めしい目で見てくれるだろうか。駒之介を恨んで、憎んで。いっそ、そういう目で見てくれた方が楽なのだ。それどころか、駒之介の、母の、幸せを願って死んでいこうという。優しいおくみが、酷く憎たらしくて、思わず、手を上げた。
ひりひりと痛んだ。
「たのむから、そんな言葉を吐くな。どうして……」
「若旦那を、お慕いしているから」
「やめろ!」
おくみの体を倒す。襦袢の前を開くと、白い肌が月光の下に露わになる。駒之介が強引におくみの体に覆い被さると、おくみは恐がるように、目を閉じた。
無理強いをする必要など無かったものを。
おくみは、舌をくれるという。駒之介が欲しがっていた、その舌を。それならば、舌だけを奪ってやれば済むことだった。けれども、こうでもしなければ、おくみの目が恐いのだ。駒之介を慈しむ、その目が恐い。
凌辱を、どうか恨んでほしい。
かたい畳の上で、おくみは逃れるように体を捩る。けれども、もう、駒之介の方が力は強い。押さえつけるのは、容易いことだった。
じっとりと吸い付く肌。女の匂いが、立ち上る。戯れの中で、熱い息が、いつしか嗚咽へと変わっていった。
「おくみさん……おれは、おかしいのかな……」
返事は無い。すすり泣きだけが、部屋に響く。
「何をしても満足できない……舌だけが……舌だけがおれを満たせる。だから、あんたの舌が欲しい。どうしても欲しいんだ。そうじゃないと、きっと満足できないんだ。ねえ、おれは、狂者なのか……?」
求めても、答えは無い。分かっている。
おくみの頭を持ち上げて、口を開かせる。瞳は絶え間なく涙を落とす。駒之介をいつまでも慈しむような、お気楽な目では、もうない。駒之介の非道を責める目で、悲しいと、すすり泣く。
開かせた口に、己の口を被せた。
舌で、腔内を蹂躙する。おくみの舌が、蠢いていた。生きて触れられる最後の舌だ。時折放して、息を吸う。女陰を掻き回すより長く、舌を愛で、掻き回した。
時間の感覚も分からなかった。
いつしかおくみの涙も乾き、それまで抵抗のなかったおくみが、駒之介の体を、僅かに押した。
「どうしたの」
「もうじき、人が起きますよ。だから、もう、ひと思いに」
声を震わせてそう言った。
「うん」
駒之介は、そっとおくみを寝かせて、鼻と口に手をやろうとする。
「後生だから」と、か細い声でおくみは言った。
「私を最後の一人にして下さい。どうか私の舌で満足して、もう人を殺めないで。繰り返しているうちに、いつか必ずヘマをしますよ。私で最後だと、そう、仰って」
「あんたで……最後……。そうだな、頑張るよ」
「違う、約束を。絶対に、これが最後だと」
強い調子で、おくみは言った。
長く、息を吐く。そうして、考える。
結局、おくみは酷い目に遭わせたところで、最後までこんなことを言う。手が後ろに回るようなことにでもなれば、この店はどうなるのか。この店を支えていくのは、駒之介の役目だ。遠回しに、そう言う。
八年前、健在だったおくみの両親も、今はいない。二人とも流行病で死んだ。それ以来、店が彼女の家で、女将が母代わりだった。店が潰れるのは、心許なかろう。
「あんたの舌は、これまで見た中で一番綺麗で、惹かれる。そんなあんたの舌を貰うんだ。約束するよ。あんたが、最後だ」
おくみは安心したように、頷いた。
最期まで自分を思ってくれるような人を手に掛けるのは、恐い。その罪悪感は、おくみから駒之介への罰だと思った。
手を伸ばして、おくみの口と鼻を、そっと押さえた。
いつもは、酒に酔わせて、寝ているところを殺す。起きている人を殺すのは、初めてだ。
おくみは、苦しそうだった。今までさんざん世話になった。これからもそうだと、思った。それを潰したのは、駒之介の、狂気だ。異常な愛情だ。妄執だ。それでも、その舌が、欲しい。これでおくみは死ぬ。その舌は、駒之介のものになる。喜ばしいことだった。
それなのに、ふと。
これで、あの美しく蠢く舌は、もう見られない。生暖かくぬめる感触にも、触れられない。この息の根が止まって、舌は、ともに死ぬ。――だなんて、考えてしまった。
弾かれるように、手が退いた。
おくみは大きく口を開けて、めいっぱいに息を吸い込む。生きている。
「若旦那……?」
困惑の声を、その舌が紡いだ。
今更、迷ってしまった。どうしても満足できなかった原因を、今、見つけてしまった。今更、見つけてしまった。もっと早く気づけば良かったのに、今になって、やっと。いっそ、気づかぬまま、狂者であれば楽だったのに。
もう遅い。五つも舌を、殺してしまった。
あれらはすべて美しい舌だったのに、それを殺し、醜く変えたのは駒之介自身だ。生きていてこそ美しいものを、残骸に変えた。残骸では、いくら望んでも満たされるわけが無かったのだ。
どうして、今更気づいてしまった。
もう後戻りなど出来無い。五人も殺した。
胸が重い。喉を焼いて、迫り上がるものがあった。顔を、背ける。
「若旦那、どうしたの」
おくみは自分の襦袢の袖で、駒之介の口元を拭う。
この人の美しい舌を、殺さなかったことが、たった一つの救いだった。けれども、書棚の五つの桐箱は、恨めしそうにこちらを見ている。
「う……いやだ……おれはただ……おれは……うああっ――」
叫びだしそうになった口を、おくみが抑える。絶叫が、腔内にこもり、喉奥へ、戻って言った。
「大きな声を出しては駄目。人が起きます。どうしたの、若旦那、ねえ」
そっと、おくみの手が離れた。
情けない。自分の目尻から、熱い涙が、次々と溢れだした。ひどい寒気がする。ここには、おくみと駒之介の二人だけ。恥も、外聞も無い。屋敷に響かぬように、駒之介は手で嗚咽を殺した。
おくみは、じっと待っていた。優しい目をして、何も言わずに待ってくれていた。おくみが泣いているとき、駒之介はおくみを弄んだ。それなのに彼女は、未だ、駒之介を慈しむように見ていた。
駒之介は、自らが手に掛けようとした彼女にすがりついた。すがりついて、さんざん泣いた。
そして、彼女に、懇願した。
「助けてよ……おくみさん……」
あんころ餅の皿を手に、座敷へ入る。
清正は、あまりいい顔をしていなかった。
「今日の餡は祖父が褒めてくれたものですから、かなり自信があるんです。いかがです?」
「一番初めに俺がここを訪ねたとき。その時もお前はあんころ餅を出したな。あの日は一日中気分が悪かった」
「それは二年も前でしょう。今は違います。さ、おひとつ」
皿を清正の方へ突き出すと、「仕方あるまい」と渋々一つ口に運んだ。
常に眉間に皺を寄せているような男だ。あんころ餅が美味かろうが、表情一つ変えないのは分かっている。ただ、最初に食わせたときは、明らか不快を示していたから、それを思えばマシなのだろう。
しばらくもぐもぐと口を動かしてから、ごくんと飲み下す。清正は茶を一口飲んで、ややあって、口を開いた。
「信じられん、美味い」
「信じられんとは、結構なお言葉を」
もう一つ、清正は手を伸ばして口へ運ぶ。表情は変えぬまま、首を傾げた。
「美味い。……以前、女将のあんころ餅を貰ったが、雲泥の差だと思った。本当に、お前のは食えたものじゃない、と。泥団子と言っても過言では無かった」
「返す言葉もございませんが……」
勿論、泥団子と言われてもおかしくないほど、不味かった。母は、食えたものじゃ無いと言った。けれども、母のあんころ餅を感じる清正の舌には、特別な思いが、恋しさがあったのだろうと思う。
「……会われますか」
問うと、清正は口を開いて数瞬、再び閉じて、首を横に振った。
「そうでございますか……」
「時折、思うことがある」
「何を」
「選ばれたのがお前で、選ばれなかったのが俺であったら。俺が駒で、お前が清であったら」
「我らには、己の運命を選ぶことは出来なかった。……私を、妬ましく思われましたか」
「多少、な。所詮、無い物ねだりだ。俺が駒でも、お前を羨んだ」
駒之介も、清正を羨んだことはある。駒之介は、幼少の頃より清正との、卯田との繋がりを知っていた。
知らざるを得なかった。父は、自分の子では無いからと、駒之介を見たがらない。母は父との子を成せず、父は肩身の狭い思いをしていたことだろう。そのはけ口は、幼い駒之介だった。母を恨み、家を疎んだ。この歪な家族を憎み、もし、自分が選ばれた子であったら――と、よく思った。
けれど、今ではどちらの家にいても変わらなかったと、分かる。
清正は卯田の奥方の子として愛情を持って育てられたという。近頃まで、自分が妾子だと知らず、幸せに過ごしていたと。けれども、この男も知らざるを得ず、ここにいる。
「私も、子供の時分はずっとこの家を嫌っていました。けれども今は、自分が駒であったことを、良かったと思います」
「そうか。俺もまた、そう思えるようになりたいものだな」
いつ、何があって、そう思えるかは、分からない。
おくみに支えられて、思いを吐き出したあの晩がなければ、駒之介も未だに家を嫌っていただろう。それどころか、自分が清正であったら、あのような過ちを犯さなかったのでは無いか、そう思った。何度も、人の舌を切っては、思った。けれども違う。所詮は同じだ。名前の違う男が、人を殺しただけだ。
結局、どちらでも同じだった。何かしら不自由で、何かしらの自由や愛情があった。それだけだ。
「駒」
清正は、駒之介の名を呼んだ。
「お前、人を殺めたか――」
唐突に、そう口にした。体に纏うひりつく気配は、あんころ餅を食いながらでもちっとも薄れる様子はなかった。これが、武士というものなのかも知れない。
息を呑む。ややあって、絞り出すように答えた。
「どうして、そう思われます」
「おしげ、という名の女を知っているな」
駒之介は答えなかった。
五人目だ。殺した最後の女だ。
「今騒ぎになっている舌を切る殺しだ。おしげという女は、家の境遇や稼ぎに似合わぬ服と飾り櫛をつけて見つかった。おしげが通い奉公に出ていた料理茶屋の女将は、ひの屋の若旦那だと。それでおんなが死ぬ晩、お前がどこで何をしていたか調べたところによれば」
この男は、もう行き着いている。落ち着いた声ではあったが、ある程度の確信を持っているように感ぜられる。
駒之介は、ふう、と息を吐いた。
「茶屋に、おりました」
「出会い茶屋に、その女と、な。おしげは、お前の横でみすぼらしい服を着たくなかったのか、いつもお前の仕立てた服を着ていたそうだな。茶屋の主人はよく覚えていた。さあ、何とか言って見ろ」
駒之介は、袖に手を差し入れた。冷たい塊を、掴む。数十余枚。じゃり、と音がして、僅かにそれを聞きつけたらしい清正が、眉を僅かに動かす。
清正の手前に、それらを放る。
「これが答えか」
「私は、人を殺めました。己の欲を満たすために、五人の舌を奪いました。けれども、ここでお縄になるわけにもいきませぬ。この店の子は私だけ。私がこの店を守らねばなりませぬ」
「ほほう、そうか。しかしな、駒、俺にも役目というものがあるぞ。お前がひの屋の子であるように、俺も卯田の子だ。さて、どうするべきか」
清正が何を言わんとしているかは、駒之介には分かっていた。
清正は、五人が無残な死に方をしたなどと言って怒るほど、情の厚い男では無い。知っている。今まで数えるほどしか顔を合わせていないが、この男の身の上より、中身を理解する方がよっぽど簡単だった。何せ、胎の中からの仲だ。
駒之介は、傍らに置いておいた風呂敷包みの菓子箱を持ち上げて、僅かに傾ける。ごとり、音がした。
「これを」
それだけ言って、風呂敷包みを差し出すと、清正は口角を上げて笑った。
「お前、地獄に落ちるぞ」
「それも、あなたが私を捕らえずにいて下さるおかげです」
散らばった小判をすべて拾い終えて揃えると、清正は、そっと自分の袖の下に入れた。
まさかこんな取引をするとは、一昨年に再会した頃には夢にも思わなかった。自分たちの出生を疎んだくせに、比べものにならない悪事をしているものだ。
清正は皿にもう一つだけ残っていたあんころ餅を口に放って、ふと思い立ったように口にした。
「お前、どうして舌なんぞを切ったんだ」
その問いに答えるには、茶の二杯目を出しても足りぬことだ。